第46話:聖女の「浄化」と、執事の「拒絶」
魔王城「パンデモニウム」の最上階にある賓客用客室。かつては冷淡な石造りであったその部屋は、今や聖女セレレスが持ち込んだ「神聖家具」や「聖画」によって、城内の他の場所とは明らかに異質な、目に痛いほどの白銀の輝きを放っていた。
「……あぁ、アルベルト様。貴方を一刻も早く、この魔族の毒気に満ちた檻から連れ出さなくては。……見てください、この清らかな聖水。これで貴方の汚れた指先を洗えば、きっと貴方も、神の御前で跪く悦びに目覚めるはずです」
セレレスは、自身を監視(という名の独占)するために廊下に陣取るバルバラやカサンドラを無視し、執務に向かうアルベルトを待ち伏せていた。彼女の瞳には、かつての慈愛に満ちた聖女の影はなく、自分を「管理」してくれた執事への、狂信的な執着が宿っている。
アルベルトは、彼女が差し出した黄金の器に満たされた聖水を一瞥し、モノクルを光らせた。
「聖女様。その『聖水』とやらは、貴女の過剰な魔力が溶け出しただけの、極めて不純物の多い液体ですね。……執事の指先は、主人のためにのみ研ぎ澄まされるもの。貴女の独りよがりな浄化に、私の貴重なリソースを割くわけにはいきません」
アルベルトの冷徹な「拒絶」。だが、セレレスはその言葉にさえ、背筋を震わせるほどの快感を抱いていた。
「……拒絶されることさえ、私への特別な『指導』に聞こえてしまいます。……あぁ、神よ。私はどうしてしまったのでしょう。……アルベルト様、貴方が私を『不潔』だと仰るなら、もっと、もっと私の魂を暴き、隅々まで貴方の規律で満たしてくださらないと……」
セレレスは、神聖な法衣の裾を僅かに持ち上げ、アルベルトへの「奉仕」と称して、彼の燕尾服の袖に指を這わせようとした。
「さあ、浄化を始めましょう。……貴方のその、魔王様に捧げた不浄な記憶を、私の光で焼き払って……」
瞬間、廊下の空気が物理的に凍りついた。
「……そこまでだ、聖女。貴殿、余の目の前で、何という破廉恥な真似を!」
現れたのは、嫉妬で角を激しく発光させた魔王ルナリスであった。その後ろには、殺気立った最高幹部たちが顔を揃えている。
「余のアルベルトに『浄化』などと、どの口が言うのだ! あやつの身体に染み付いたのは、穢れではない。余との、そしてこの城の女たちとの、逃れ得ぬ『主従の証』なのだぞ!」
ルナリスの咆哮に対し、セレレスは陶酔しきった笑みを返した。
「……主従の証。……あぁ、なんて不潔で、なんて魅力的な響きでしょう。……それならば、私がその証ごと、アルベルト様を我がものにして差し上げます」
聖女の宣戦布告に、ルナリスの独占欲はついに爆発した。
魔王城始まって以来の、「聖なる略奪者」と「魔王の正妻」による、執事を巡る全面戦争の幕が上がったのである。
「浄化」という名の一方的な略奪。聖女セレレスが放ったのは、神聖魔法の極致『天上の抱擁』であった。周囲の空気を瞬時に白銀の結晶へと変え、対象の精神から「欲望」や「記憶」を強引に削ぎ落とし、ただ純粋な無へと還元する禁忌の術式。
ルナリスたちが叫び、結界を破ろうと魔力を激突させるが、聖女の狂信的な執着が編み上げた光の繭は、一分の隙も与えない。
「……さあ、アルベルト様。魔王との忌まわしき絆を忘れ、私の腕の中で、神の僕として新生なさい」
セレレスが恍惚とした表情で、光の中に立つアルベルトの頬に手を伸ばした、その時。
パリ、と。
氷が割れるような、乾いた音がした。
セレレスの絶対的な浄化の光が、アルベルトが掲げた「ただの白いリネン」のひと振りによって、埃のように払い落とされたのである。
「……不潔ですね。……これほどまでに主観的な『正義』を押し付けるのは、執事の美学において、最も排除すべき『汚れ』でございますよ、聖女様」
光の霧が晴れた後、そこには燕尾服のシワ一つ乱れていないアルベルトが立っていた。彼の周囲には、彼が放った「中和魔力」が細かな粒子となって漂い、聖女の神聖魔力を物理的に分解して、ただの無機質な光の塵へと変えていた。
「な……ッ!? 私の『抱擁』が、たかが布切れ一枚で……!? 馬鹿な、そんなはずは……」
「たかが、ではありません。これは主人の寝室を整えるための、特別な加護を施したリネン。……貴女のその、独善的で粘り気のある魔力など、この城の『不浄な油汚れ』に比べれば、取るに足りない雑多なシミに過ぎません」
アルベルトは一歩、また一歩と、狼狽えるセレレスへと歩み寄った。
逃げ場を失った彼女の背中が、冷たい壁に押し付けられる。アルベルトは彼女の顎を指先で掬い上げ、その碧眼を至近距離で覗き込んだ。
「聖女様。……貴女が本当に浄化すべきは、私の記憶ではありません。……神の名を借りて、私という個人を支配しようとする、貴女自身のその『醜い所有欲』です。……不潔ですね。……そのような乱れた魂で、よくも聖女を名乗れたものです」
アルベルトの冷徹な断罪。セレレスは、自らの存在理由そのものを「汚れ」と断じられた衝撃に、全身を激しく震わせた。だが、その瞳に宿ったのは絶望ではない。自分を「不潔」だと叱り、その罪を白日の下に晒してくれた執事への、狂おしいほどの依存の光であった。
「……あ、あぁ……。……汚れ……。私は、汚れている……。……そう、そうですね、アルベルト様。……ならば、貴方が、貴方のその規律に満ちた指先で……私のすべてを、洗い流してくださらなければ……!!」
セレレスは、自ら法衣の襟元をはだけさせ、アルベルトに縋り付こうとした。
「あはは……! さあ、私をお世話して! 貴方のその冷たい規律で、私の魂を粉々にして、一から作り直してよぉ……!!」
「――そこまでだ!!」
ルナリスの魔力が爆発し、ようやく結界が砕け散った。
バルバラ、カサンドラたちが一斉に飛び込み、アルベルトの腕から聖女を引き剥がす。
「この女、完全にイカれてやがる……! 浄化のついでに、自分を差し出すなんて、聖女の風上にも置けん!」
「規律以前の問題です。……アルベルト、この女には、私が直々に『魔王城の罰』を与えます。……貴殿の手をこれ以上汚す必要はありません!」
最高幹部たちに左右から腕を固められ、引きずり出されていくセレレス。だが彼女は、連行されながらも、アルベルトを一心不乱に見つめ、蕩けた笑みを浮かべていた。
「……待っています、アルベルト様。……今夜、私の部屋に、『シミ抜き』に来てくださるのを……うふふ……!」
ルナリスは、真っ赤な顔をしてアルベルトの腕を抱きしめた。
「……アルベルトよ。……貴殿、もうあやつに近づくな。……いいか、あやつは……あやつは、余たち以上に危険な『変態』だぞ!!」
アルベルトは、ルナリスの髪に付いた光の塵を優雅に払いながら、モノクルを光らせた。
「……左様でございますね。……主人の仰る通り。……ですが、あの方の『汚れ』も、いつかは整えねばならぬのが執事の宿命。……ルナリス様、今夜は、貴女様のその不安という名のノイズを、じっくりと消し去って差し上げましょう」
魔王城に新たな「強敵(おねだり客)」が加わり、執事アルベルトの毎日は、さらに過酷で、甘美な混沌へと突き進んでいくのであった。




