第41話:将軍の涙と、鎧の中の少女
魔王城「パンデモニウム」に、かつてないほど穏やかな春の風が吹き抜けていた。
アルベルトの「至高の管理」によって魔界全土の治安が安定し、聖騎士団の過激派も一掃された今、第一軍を率いる将軍バルバラの公務は、激しい実戦から「儀礼的な演習」へとその姿を変えていた。
それは本来、喜ばしい平和の証であるはずだった。
しかし、演習場の一角で一人、磨き上げられた白銀の鎧を見つめるバルバラの瞳には、かつての鋭い闘気ではなく、正体不明の「翳り」が宿っていた。
「……平和か。……ふん、笑わせるな」
バルバラは、アルベルトに教わった通り一点の汚れもない大剣を鞘に収め、自らの掌を見つめた。
アルベルトの手によって整えられ、荒れていた肌は瑞々しさを取り戻し、節くれだっていた指先は今や淑女のように美しい。だが、彼女は感じていた。この美しい手が、戦い方を忘れ、ただ執事の給仕を待つだけの「飾り物」になってしまうのではないかという、拭いきれない恐怖を。
その日の夜。
ルナリスの寝所に同行していたアルベルトは、主人の髪を梳かしながら、モノクルの奥で僅かに眉を動かした。
「ルナリス様。……本日のバルバラ様の魔力波形、僅かに『不協和音』が混じっております。……彼女の精神に、錆びついた孤独が入り込んでいるようです」
「……うむ。余も気づいていた。あやつ、今日の訓練中、一度も余と目を合わそうとしなかったからな。……アルベルトよ。あやつは不器用だ。……自分が『戦士』でなくなった時、何をもって余に仕えれば良いのか、分からなくなっているのだろう」
ルナリスは鏡越しにアルベルトを見つめた。
「……貴殿の出番だな。……余の同行を許すか? それとも、あやつの『鎧の中の少女』を救い出すには、二人きりの方が良いのか?」
「ルナリス様。主人の慈悲は、時に同行者がいない方が深く浸透するものです。……今夜ばかりは、私に一任していただけますか?」
「……ふん。致し方ない。……だが、泣かせすぎるなよ。……あやつが泣いて良いのは、余と、貴殿の腕の中だけなのだからな」
ルナリスの許可(という名の嫉妬混じりの譲歩)を得たアルベルトは、深夜、バルバラの私室へと向かった。
扉の向こうからは、重い金属の音が響いていた。バルバラは眠れぬ夜、一人で鎧を脱ぎ、それを執拗なまでに磨き続けていたのである。
アルベルトが音もなく扉を開けると、そこには、月光に照らされたバルバラの背中があった。
上半身を露わにし、傷一つない白皙の背中に、彼女自身の涙が滴り落ちていた。
「……バルバラ様。……夜食の差し入れをと思いましたが、どうやら貴女に必要なのは『胃袋の満足』ではなく、『心の洗浄』のようですね」
バルバラの肩が、びくりと跳ねた。
「……ア、アルベルト……!? 貴様、なぜここに……。……見るな。今の俺は、将軍失格の、ただの……ただの泣き虫だ……っ」
彼女が隠そうとしたその顔には、戦士の誇りは微塵もなく、ただ「必要とされなくなること」を恐れる、迷子のような少女の表情が張り付いていた。
アルベルトは、手に持っていたトレイを静かに置き、一歩、また一歩と、彼女の孤独な聖域へと踏み込んでいった。
月光が差し込む静寂の私室。バルバラは、アルベルトに背を向けたまま、震える肩を抱きしめていた。
魔王軍の武の象徴、最強の将軍。その称号という名の重い鎧を脱ぎ捨てた彼女の背中は、アルベルトが日々丹念に調律してきたおかげで、かつての荒々しさは消え、滑らかな曲線を描く一人の女性のそれであった。
「……バルバラ様。貴女のその涙。……それは武人としての敗北ではありません。……溜まりに溜まった『自己犠牲』という名の毒が、限界を迎えて溢れ出しただけのことです」
アルベルトの声は、どこまでも冷徹で、そして残酷なほどに優しかった。彼は迷いなく歩み寄り、バルバラの震える肩に、温めた濡れタオルをそっと当てた。
「ひ……っ! ……やめろ、アルベルト。……俺は、戦うことしか知らんのだ。……平和になれば、俺はただの、身体ばかりが大きな『出来損ないの女』だ。……魔王様も、貴様も、いつか俺を見捨てるに決まっている……!」
「出来損ない? ……心外ですね。貴女を今の美しい姿に整えたのは、この私ですよ。……自分の『作品』を出来損ないなどと、執事として看過できません」
アルベルトは、バルバラの身体を強引に自分の方へと向き直らせた。
涙で濡れた琥珀色の瞳。バルバラは抵抗しようとしたが、アルベルトのモノクルの奥にある「絶対的な肯定」を宿した瞳に見つめられ、全身の力が抜けていった。
「バルバラ様。……貴女は、ルナリス様を守るために強くなった。……ですが、主人は貴女に『剣』であることを求めているのではありません。……貴女という『一人の友人』が、笑って隣にいてくれることを望んでおいでです」
アルベルトは、彼女の頬を伝う涙を指先で拭い、そのまま彼女の首筋に触れた。
「……お仕置きが必要ですね。……自分の価値を疑うなど、規律違反も甚だしい」
アルベルトは、バルバラを椅子に座らせ、彼女の身体に黄金色の香油を注ぎ込んだ。
それは筋肉の疲労を癒やすためではなく、彼女の「心」を覆っている鉄の規律を溶かすための、特別な調律。
「あ、あああああッ!? アルベルト……貴殿の、魔力が……っ。……脳まで、蕩けてしまう……!!」
アルベルトの指先が、バルバラの胸元、魔力の核が眠る場所を、慈しむように圧迫する。
一突きごとに、彼女を縛っていた「戦士であらねばならない」という呪いが、快感と共に崩れ去っていく。バルバラは、自分が将軍であることも、魔王の臣下であることも忘れ、ただアルベルトという男に依存し、管理される一人の女へと、完全に解体されていった。
「……はぁ、はぁ……っ。……アルベルト。……俺は、どうすればいい。……俺には、何が残っているんだ……」
「何も残さなくてよろしいのです。……貴女のすべては、私が管理します。……戦う時も、眠る時も、そして……一人の女として泣く時も。……貴女の居場所は、私の腕の中にあると、主人は既に許可されていますよ」
バルバラは、子供のようにアルベルトの胸に飛び込み、声を上げて泣きじゃくった。
誰にも見せられなかった弱さ。誰にも触れさせなかった孤独。それらすべてを、アルベルトの完璧なホスピタリティが飲み込んでいく。
「……さて。涙の洗浄は終わりました。……バルバラ様、仕上げに、貴女のために用意した『戦士ではない服』を試着していただきましょうか」
アルベルトが取り出したのは、鎧とは無縁の、柔らかいレースがあしらわれた絹の寝着。
バルバラは、真っ赤な顔をしてそれを纏い、鏡に映る「鎧のない自分」を見つめた。そこには、魔王軍将軍ではなく、一人の幸福な少女が立っていた。
翌朝。
演習場に現れたバルバラの姿に、兵士たちはどよめいた。
その鎧の着こなしは以前にも増して鋭いが、その表情には、どんな強敵を前にしても揺るがない「絶対的な安らぎ」が宿っていた。
彼女は、アルベルトを一瞥すると、僅かに頬を染め、静かに、しかし力強く頷いた。
「……アルベルト。……昨夜の『お世話』、礼を言う。……俺は、もう迷わん。……貴様に磨かれたこの命、最後まで貴様と魔王様に預けよう」
将軍バルバラ。
彼女は今、戦士としての鎧を纏いながらも、その内側には、執事アルベルトにだけ許した「一人の少女」を、大切に抱え込んでいたのである。




