【幕間】主人の緩みと、執事の無慈悲な規律
魔王城「パンデモニウム」の朝。最高幹部たちが一堂に会する定例軍議の場は、本来であれば魔界の覇権を揺るがす緊張感に満ちているはずであった。
だが、今朝の空気はどこかおかしい。
玉座に鎮座する魔王ルナリスは、将軍バルバラが報告する「国境付近の魔獣分布」に関する重要な報告を、右から左へと聞き流していた。
「……ルナリス様? 聞いておいでですか? 我が第一軍の配置について、ご決断を……」
バルバラの困惑した声も、ルナリスの耳には届かない。
ルナリスの視線は、虚空を見つめ、その口元はだらしなく緩み、時折「……ふふ、ふふふっ」という、魔王にあるまじき甘い吐息混じりの笑みが漏れ出していた。
彼女の脳裏にあるのは、昨夜、アルベルトの私室で繰り広げられた禁断の光景である。燕尾服を脱いだ彼の熱い掌、自分の名を呼ぶ低い声、そして――。
「……あ。アルベルト……。そんな……激しくは……」
ポソリと、ルナリスの口から、およそ軍議の場には相応しくない単語がこぼれ落ちた。
場が凍りついた。
「なっ……ななな、何を!? アルベルトと、何をしていたのですか、魔王様!!」
バルバラが激昂して立ち上がり、愛剣をガタつかせる。
「あはは……。魔王様、頭の中がピンク色の魔力で埋め尽くされてるよぉ。これじゃ、今日の計算は全部僕に回ってきちゃうなぁ」
メルヴィが面白そうに、しかし瞳には隠しきれない嫉妬を宿して、ルナリスを凝視する。
「……ずるい。……あたいも、まだそこまで(私室)には踏み込んでないのに……」
影の中からゼノビアの恨みがましい視線が突き刺さる。
だが、その混沌とした場を、氷点下の「秩序」が切り裂いた。
「ルナリス様。……これ以上の醜態は、魔王家の品格を致命的に汚します。今すぐ、その緩みきった思考を『整理』なさい」
玉座の傍らに控えていたアルベルトが、一点の曇りもない白手袋で、ルナリスの机を「コン、コン」と冷徹に叩いた。
その指先の動き、音の響き、そしてモノクルの奥に宿る「一切の容赦のない」光。
ルナリスは「ひゃいっ!?」と短い悲鳴を上げて飛び起き、背筋をピンと伸ばした。
「あ、アルベルト……。貴殿、余は今、真面目に職務を……」
「嘘をおつきにならないでください。貴女様の今の脳内魔力波形は、昨夜の思い出を九割、これからの昼食への期待を一割といったところ。……職務に充てられているリソースは、ゼロでございます」
アルベルトは、驚愕する最高幹部たちを一瞥し、ルナリスへと向き直った。
「皆様、本日の軍議はこれにて解散です。……主人の『規律』が著しく乱れておりますゆえ。これより、私が責任を持って、ルナリス様の精神を『再教育』させていただきます」
「再教育……? アルベルト、何を……」
「言うまでもありません。……主人が主人としての尊厳を取り戻すまで、徹底的に、甘えを許さぬ『指導』を施すということでございます」
アルベルトが指を鳴らすと、軍議室の扉が魔法で一斉に閉じられた。
外へ追い出されたバルバラたちが扉を叩き、嫉妬の叫びを上げる中、アルベルトはゆっくりと、ルナリスが座る玉座へと歩み寄った。
巨大な扉が閉ざされ、防音の結界が「パンデモニウム」の軍議室を完全な静寂へと突き落とした。
外側で扉を激しく叩くバルバラたちの怒声も、もはやここには届かない。広大な空間に残されたのは、玉座で縮こまる魔王ルナリスと、その前に無感情な静寂を纏って立つ執事アルベルトだけであった。
「……ア、アルベルト。そのような、獲物を定めるような目で見るな。余は……ただ、昨夜の貴殿があまりに……その、優しかったから、つい……」
ルナリスは必死に言い訳を並べようとするが、アルベルトは無言のまま、一点の曇りもない白手袋をゆっくりと嵌め直した。その「仕草」一つに、ルナリスの身体はビクリと跳ねる。
「ルナリス様。執事の優しさを『公務の怠慢』の言い訳に使うとは、不潔な堕落と言わざるを得ません。……貴女様は、昨夜の安らぎによって、魔王としての鋭利な規律を失ってしまった。……ならば、私がこの手で、貴女様を再び『研ぎ直す』必要があります」
アルベルトは一歩、また一歩と玉座の階段を登った。
ルナリスは逃げ場を失い、豪奢な椅子の背もたれに深く身を沈める。アルベルトは彼女の前に跪くのではなく、逆に彼女の両脇に手をつき、逃げ道を塞ぐように覆い被さった。
「な……っ!? アルベルト、何を……」
「精神の調律です。……目を閉じてください」
アルベルトの指先が、ルナリスのこめかみにそっと触れた。
瞬間、ルナリスの脳裏に、昨夜の甘い記憶が強制的に「再生」された。だが、それは安らぎを与えるためではない。アルベルトが指先から流し込む冷徹な魔力が、その記憶を「甘い毒」として定義し、ルナリスの精神を激しく揺さぶる。
「あ、あああああッ!? アルベルト……貴殿、何を……っ!!」
「思い出してください、ルナリス様。昨夜、貴女様を支配していたのは私のこの『手』です。……ならば、今この場でも、貴女様のすべてを司っているのは私であるはずだ。……家臣たちの前で鼻の下を伸ばすことが、私の望んだ管理の形だとお思いですか?」
アルベルトの声は、氷の刃のように冷たく、しかし同時に抗いがたい熱を持ってルナリスの耳孔を犯していく。
彼はルナリスの顎を掬い上げ、無理やり自分を直視させた。モノクルの奥で光る、一切の妥協を許さぬ管理者の瞳。
「……っ、う。……申し訳、ない……。余が……余が、浅はかであった……」
「……よろしい。反省の兆しが見えました。……では、仕上げに、その緩みきった頬と唇に、規律の味を刻み込んでおきましょう。……これは、魔王としての自覚を欠いた『不潔な主人』への、執事からの制裁です」
アルベルトは、ルナリスの震える唇に、自身の親指を強く押し当てた。
そのまま、彼女の口内に微かな、しかし鮮烈な刺激を伴う魔力を流し込む。
「ん、んんぅ…………ッ!!」
ルナリスは、昨夜の甘美な快楽とは正反対の、鋭く、研ぎ澄まされた「覚醒」の衝撃に全身を震わせた。脳内のピンク色の霧が一瞬で晴れ渡り、魔王としての冷徹な理性が、強制的に再起動させられる。
「……はぁ、はぁ……っ。……もう、良い……。わかった……わかったから……っ」
ルナリスの瞳からは、先ほどまでの「ニヤニヤ」は完全に消え去り、そこにはアルベルトという規律に平伏し、かつ彼への畏怖と愛が入り混じった、鋭利な知性が戻っていた。
アルベルトは、満足げに彼女から離れ、燕尾服の乱れを優雅に正した。
「……素晴らしい。……やはり貴女様は、こうして『整えられて』いる時が最も美しい。……ルナリス様、軍議を再開しましょうか。……扉の外で不服申し立てをしている者たちの、声が聞こえませんので」
アルベルトが指を鳴らすと、扉の結界が解除された。
雪崩れ込んできたバルバラ、メルヴィ、ゼノビア、カサンドラの四人が目にしたのは、玉座に毅然と座り、氷のような威厳を放つ魔王ルナリスの姿であった。
「……お待たせしたな、者共よ。……軍議を再開する。……アルベルト、茶を。……余の喉を、規律で潤せ」
「御意のままに。……マイ・レディ」
ルナリスは、アルベルトが淹れた、いつもより僅かに苦味の強い茶を啜り、密かに自嘲した。
(……余は、本当に救えぬな。……厳しくされることすら、あやつの愛(奉仕)だと感じてしまうのだから……)
魔王の「緩み」は、執事の無慈悲なまでの「お世話」によって、より強固な忠誠と依存へと、美しく磨き直されたのであった。




