第38話:城下町の視察と、隠れた秩序
魔王城「パンデモニウム」の城下に広がる居住区。そこはかつて、弱肉強食を地で行く魔族たちがひしめき、路地裏には魔力の澱みが溜まり、暴力と不衛生が日常を支配する「混沌の坩堝」であった。
しかし、今。ルナリスがアルベルトに手を引かれ、お忍びの外套を纏って降り立ったその街は、彼女の記憶にあるものとは似ても似つかぬ変貌を遂げていた。
「……アルベルト。ここは、本当に余の城下町なのか? まるで人間界の、それも聖域の都を見ているようではないか」
ルナリスは外套のフードから目を覗かせ、信じられないものを見るかのように周囲を見渡した。
まず目に飛び込んできたのは、一点の曇りもない石畳のメインストリートだ。かつては魔獣の排泄物や血痕が放置されていたその道は、今やアルベルトが城内で培った「魔導清掃システム」の外郭版が導入され、塵一つ落ちていない。
さらに、立ち並ぶ家々の壁は塗り直され、軒先には魔界の毒気を浄化する「清浄の花々」が飾られている。行き交う魔族たちも、かつての刺々しさは影を潜め、どこか余裕のある、整った身なりで買い物を楽しんでいた。
「ルナリス様。城を整えることは、即ちその基盤である街を整えること。城内をどれほど完璧に清掃しても、外から不浄な泥が持ち込まれては非効率ですからね。私は少々、街のギルド長や商人たちに『生活管理のガイドライン』を提示し、流通と衛生を最適化したまでにございます」
「少々だと? 貴殿の言う『少々』は、世界を作り替えるのと同義ではないか」
ルナリスは呆れ混じりに溜息をついたが、その瞳には自らの統治がこれほどまでに美しく、健全になったことへの深い喜びが宿っていた。
二人が歩みを進めると、広場の中心にある噴水――アルベルトが設計した、魔力を濾過して飲料水に変える装置――の周りで、魔族の子供たちが笑いながら遊んでいた。
「見て、執事さんだ! 執事さんがまた来てくれたよ!」
一人の少年(といっても頭には小さな角が生えている)が、アルベルトを見つけるなり駆け寄ってきた。
「おや。こんにちは。……教えてあげた通り、朝の挨拶と手洗いは欠かしていませんか?」
アルベルトは、子供の目線に合わせて僅かに腰を落とし、一点の曇りもない白手袋で子供の頭を優しく撫でた。
「うん! 毎日ちゃんとやってるよ! 執事さんの言う通りにしたら、お母さんの具合も良くなったんだ!」
「それは素晴らしい。……ルナリス様、この子たちの瞳を見てください。不浄を払い、秩序を与えることで、魔族の未来さえもこれほどまでに『澄んだ』ものに変わるのです」
アルベルトの背中を見つめるルナリスの胸に、誇らしさと、そして言葉にし難い「独占欲」が同時に沸き上がった。
この男は、余一人の執事であるはずだ。だが、今や彼はこの城下町のすべての人々に愛され、彼らの生活すらも完璧に「管理」してしまっている。
「……アルベルト。貴殿は、余の知らないところで、これほどまでに多くの民に慕われていたのだな」
「滅相もございません。私はただの執事。主人の資産である『領民』の品質を維持しているに過ぎませんよ」
「……ふん。相変わらず、可愛げのない言い方をする」
ルナリスはアルベルトの腕をぎゅっと抱き寄せ、周囲の民たちに「この男は余のものだ」と言わんばかりの視線を送った。
だが、その視線の先。広場の喧騒に紛れて、不自然な「淀み」を纏った一団が、アルベルトをじっと凝視していることに、ルナリスはまだ気づいていなかった。
平和になった街に潜む、僅かな不協和音。
アルベルトの「管理」を快く思わない、旧体制の残滓たちが、執事の命を狙って影を動かし始めていた。
穏やかな活気に満ちた広場の隅。アルベルトの腕に寄り添うルナリスの背後から、凍てつくような殺気が放たれた。それはアルベルトがもたらした「清潔な平和」を憎み、かつての弱肉強食こそが魔族の真理だと信じる過激派の生き残り――暗殺結核「黒い煤」の放った刺客たちであった。
「……死ね、偽りの平和を説く人間め!」
三人の暗殺者が、周囲の民に紛れた状態から一斉に跳躍した。彼らの手には、魔王城の強固な結界さえも腐食させる猛毒の短剣が握られている。
「ルナリス様、動かないでください。……少々、街の『染み抜き』をさせていただきます」
アルベルトの声は、紅茶の温度を確認する時と変わらぬほどに平坦であった。
彼はルナリスを背後にかばうこともせず、むしろ彼女を優雅にエスコートして半歩前へ踏み出させると、空いた左手で「指」を一つ鳴らした。
カチリ、と。
その瞬間、広場の石畳に刻まれていた微細な清掃用の魔導紋が逆転し、強力な「斥力」の渦を巻き起こした。
「……なっ!? 身体が……浮く……ッ!?」
飛びかかった暗殺者たちは、空中で不可視の圧力に捉えられ、まるでゴミ箱に放り込まれる紙屑のように、虚空に固定された。
「不潔ですね。……公衆の面前で武器を振るうなど、マナーの欠片もありません。しかも、その短剣の毒……。抽出が甘く、周囲の空気を汚していますよ」
アルベルトは、懐から一点の曇りもない白銀のピンセットを取り出した。彼は宙に浮いた暗殺者の一人に歩み寄ると、その首筋から、不自然に肥大化した「暴走魔力」の結晶を、まるで棘を抜くかのような手際の良さで摘み取った。
「ぐ、あああああッ!!」
魔力を奪われ、急速に衰弱する暗殺者。
「殺しはしません。……ですが、貴殿らのその『暴力に依存した思考』は、徹底的に洗浄される必要があります。……ゼノビア様、後の処理をお任せしてもよろしいですか?」
アルベルトが声をかけた影の中から、琥珀色の瞳が爛々と輝いた。
「……言われるまでもないよ。……あたいの街を汚した不潔物どもだ。……二度と日の光を拝めないほどの、最高のお世話(尋問)を施してやるよ」
ゼノビアの影が暗殺者たちを飲み込み、広場には再び静寂が戻った。
一連の出来事は、わずか十数秒。
周囲の民たちは、怯えるどころか、アルベルトの華麗な手際に「さすが執事さんだ!」と歓声を上げている。ルナリスは、己の隣で平然と白手袋のシワを正している男を見上げ、感嘆と、そして深い愛情を込めて溜息をついた。
「……アルベルト。貴殿は、城の中だけでなく、この街の『影』すらも、すでに掌握していたのだな」
「管理とは、表面を繕うことではありません。根を整えることです」
アルベルトは、ルナリスの手を再び取り、夕暮れに染まる街並みを見渡した。
「ルナリス様。……ご覧ください。貴女様が愛したこの民たちが、清潔な服を着て、安らかな眠りにつき、明日への希望を持って食卓を囲んでいる。……これこそが、私が貴女様に捧げる、魔王城という名の『家』の真の姿です」
「……あぁ。……そうだな。余は、世界で一番の幸せ者だ。……これほどの執事を持って、これほど豊かな国を統治できているのだから」
ルナリスは、アルベルトの胸元に顔を埋め、彼の心音を聴いた。
かつて孤独だった魔王の心は、今や一人の執事がもたらす「完璧な秩序」という名の、温かな籠の中にあった。
視察を終えた二人が城へ戻ると、玄関先ではバルバラ、メルヴィ、カサンドラたちが、嫉妬と期待に満ちた瞳で待ち構えていた。
「……遅かったな、アルベルト! 魔王様との密会はこれくらいにしろ! 俺の筋肉が、貴様の指先を求めて悲鳴を上げているんだ!」
「あはは。……僕もだよぉ。視察の間の未整理情報が、脳を圧迫して頭が痛いんだぁ……」
アルベルトは、彼女たちの騒がしい、しかし一点の曇りもない忠誠(依存)を受け止めながら、モノクルを光らせて微笑んだ。
「……よろしい。今夜は、城内すべての『再調律』を行いましょう。……ルナリス様、よろしいですね?」
「……うむ。……余の寛大さを見せてやろう。……ただし、最後は……余だけを、一番長く『お世話』すること。……これは王命だぞ」
魔王城「パンデモニウム」に、再び甘美で過酷な「至高のメンテナンス」の時間が訪れる。
一人の執事による全方位的管理は、これからも永遠に続いていくのである。




