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第36話:忍び寄る「正義」の泥

 魔王軍最高幹部全員がアルベルトの手によって「調律」され、魔王城「パンデモニウム」は今や、世界のどこよりも完璧な秩序と安らぎが同居する聖域となっていた。

 城内を流れる空気は、アルベルトが調整した魔導換気システムによって常に清浄に保たれ、廊下を歩けば最高級の白檀の香りが鼻腔をくすぐる。かつて「恐怖」の象徴であった居城は、今や「至高のホスピタリティ」を体現する理想郷となっていたのである。


「……ふむ。アルベルト、今日のテラスの風は、いつになく甘美だな」

 魔王ルナリスは、アルベルトの腕を抱き、新しく整えられた空中庭園を散策していた。

 彼女の隣を歩くアルベルトは、相変わらず一点の隙もない燕尾服を纏い、モノクルの奥で城内のあらゆる数値をリアルタイムで監視している。


「ルナリス様、それは気圧と湿度の調整が完璧に機能している証拠です。……ですが、主人の表情に僅かな曇りがある。……何か、気にかかることでも?」

「……いや。貴殿が整えてくれたこの平和が、あまりに美しすぎてな。……時折、これが夢ではないかと不安になるのだ。……余は、この日常を汚す者があれば、それが神であっても許さぬぞ」


 ルナリスがアルベルトの胸元に顔を寄せた、その時。

 二人の背後の「影」が、不自然な波紋を描いた。


「……魔王様。アルベルト。……悪い知らせだね。……あたいの影に、不潔な泥が混じり込んでるよ」

 諜報員ゼノビアが、影の中からぬらりと姿を現した。彼女の琥珀色の瞳は、かつての絶望ではなく、自らの「居場所」を汚された者特有の、鋭く冷徹な怒りに燃えていた。


「ゼノビア様。私の掃除した影を汚すとは、穏やかではありませんね。……具体的には?」

「人間界の、王命を無視した過激派……聖騎士団の残党だよ。……『魔王に洗脳された哀れな同胞を救い出す』なんて、反吐が出るような正義を掲げて、結界の隙間を縫って潜入してきてる」


 その言葉と同時に、空気を切り裂くような軍靴の音が響き、筆頭カサンドラが姿を現した。

「……ルナリス様。結界の第十四層に、微細な不浄反応を確認しました。……エドワード王の和平を快く思わぬ、独りよがりの『聖戦士』どもです。……奴らは、この城がアルベルトによって美しく整えられていることすら知らず、ここを地獄だと思い込んで侵入を続けています」


 ルナリスの表情から、甘い安らぎが消え、魔王としての苛烈な威厳が戻った。

「……余とアルベルトの平和を、泥靴で踏み荒らそうというのか。……不敬。万死に値するな」


 一方その頃。

 魔王城の北側、最も険しいとされる断崖に面した外壁。

 そこには、純白の法衣を纏った一団が、魔導の鉤縄かぎなわを用いて音もなく壁を登っていた。


「……聞け、兄弟たちよ。我らの目的は、魔王に魂を奪われ、奴隷へと堕とされた宮廷執事アルベルト殿の救出。そして、邪悪なる魔王軍の心臓部を討つことにある」

 リーダー格の男、聖騎士ガウェインは、狂信的な光を瞳に宿して囁いた。

「エドワード王は魔王の幻術に惑わされている。……だが、我ら正義のともが、この不潔な魔窟を光で焼き払い、真の平和を取り戻すのだ!」


 彼らは、壁を乗り越え、城の内郭へと足を踏み入れた。

 彼らが想像していたのは、血生臭い匂いと、拷問に喘ぐ犠牲者の悲鳴、そして腐敗した空気であった。

 しかし。


「…………なんだ、これは?」

 一歩踏み出したガウェインの足元にあったのは、一点の曇りもない、月光を反射して輝く白大理石の回廊だった。

 漂ってくるのは血の匂いではなく、心を落ち着かせるアロマの香り。廊下には、かつて見たこともないほど精密な工芸品が飾られ、不気味な気配どころか、そこには「至高の秩序」が満ち満ちていたのである。


「……罠か!? あるいは、強力な幻術か! ……騙されるな! この美しさは、魔王の毒が形を成したものだ!」

 ガウェインは剣を抜き、あろうことか、アルベルトが今朝磨き上げたばかりの彫像の台座を、泥のついた靴で踏みつけた。


 その瞬間。

 廊下の突き当たりから、氷点下の声が響いた。


「……お客様。……その靴の汚れ。……私の主人の生活圏に持ち込むには、少々『不潔』が過ぎますね」


 影の中から現れたのは、燕尾服の袖を捲り上げ、片手に「洗浄魔法」を纏わせたアルベルト。

 そしてその背後には、憤怒に燃える魔王ルナリスと、獲物を定める猛獣のような眼差しをした最高幹部たちが勢揃いしていた。


「……大掃除の時間です。……皆様、この招かれざる『ゴミ』どもを、一粒残らず、美しく処分して差し上げましょう」


 執事の宣戦布告。

 勘違いの正義に燃える侵略者たちを待ち受けていたのは、魔王軍が誇る「完璧な調律(お世話)」という名の、絶望的な敗北であった。


 「魔王に洗脳された執事を救い出せ!」

 聖騎士ガウェインの号令と共に、十数名の精鋭たちが一斉に抜剣した。彼らが掲げる聖銀の剣は、不浄を払う光を放つはずのもの。しかし、一点の曇りもない魔王城の回廊において、その光はむしろ「場違いなノイズ」として、アルベルトの眉をひそめさせるに十分であった。


「洗脳、でございますか。……左様に見えるのであれば、貴殿らの眼球こそが、酷く濁っておいでだ」

 アルベルトは一歩も引かず、むしろ優雅に、泥に汚れた床へ向けて指先を鳴らした。

「バルバラ様。……主人の廊下を汚した不敬者に、規律の重み(コンディショニング)を教えて差し上げなさい」


「応! 待っていたぞ、アルベルト!」

 頭上から凄まじい衝撃波と共に、将軍バルバラが着地した。

 彼女の纏う白銀の鎧は、アルベルトのメンテナンスによって常時「物理反射」の魔力を帯びている。ガウェインたちの放つ聖光の斬撃は、バルバラの肌に触れるどころか、彼女の鎧が放つ「美しき輝き」によって霧散し、逆に聖騎士たちの視界を奪った。


「なっ……魔王の将軍が、なぜこれほどまでに清浄な魔力を!? ぐわあぁぁっ!」

 バルバラの振るう大斧の峰が、ガウェインの肩を叩き潰す。それは殺すためではなく、汚れを叩き出す「布団叩き」のような無造作な一撃であった。


 一方、退路を断とうとした聖騎士たちの足元からは、参謀メルヴィの冷徹な声が響く。

「あはは。……君たちの行動パターン、三秒前に計算終わっちゃったよぉ。……不潔な殺気は、僕の思考の邪魔なんだよねぇ」

 メルヴィが展開した「空間隔離障壁」により、聖騎士たちは一歩も動けぬまま、自らが持ち込んだ泥と焦燥の中に閉じ込められた。影からはゼノビアの短剣が走り、彼らの装備の「継ぎ目」だけを正確に裁断していく。


 数分と経たぬうちに、人間界の「精鋭」たちは、武器を失い、誇りを折られ、見るも無惨な姿でアルベルトの前に引きずり出された。


「……く、殺せ……! 魔王の犬に成り下がった執事よ、貴様に救われたなどと……っ!」

 ガウェインが憎悪を込めて吐き捨てる。だが、アルベルトはその言葉を柳に風と受け流し、彼の顔を覗き込んだ。


「殺す? 滅相もございません。……死体は、最も処理の面倒な不潔物です。……私はただ、貴殿らのその『歪んだ正義』という名のシミを、根こそぎ洗浄して差し上げるだけですよ」


 アルベルトが右手をかざすと、彼の指先から、眩いばかりの純白の魔力が放たれた。

 それは攻撃魔法ではない。アルベルトが最高幹部たちの精神を整えるために編み出した「全感覚初期化フル・リセット」の術式。


「あ、あああああッ!? なんだ……頭の中が、洗われる……真っ白に……!!」

 ガウェインたちは、自分たちの脳内にこびりついていた「魔族は悪」「平和は屈辱」という偏った情報が、圧倒的な「秩序の濁流」によって洗い流されていく恐怖と快感に絶叫した。

 アルベルトの調律は、一瞬にして彼らの「心の汚れ」を落とし、ただの「平和を願う一人の人間」へと回帰させたのである。


 やがて、絶叫が収まり、ガウェインたちは生まれたての赤子のような、穏やかで虚ろな表情で床に伏した。

「……ルナリス様。不潔物の処理、完了いたしました。……彼女たちは明日、エドワード王の元へ『平和の使者』として丁重に送り返しましょう。……もちろん、二度とこの城を汚さぬよう、脳内に完璧な『マナー』を刻み込んでおきました」


「うむ。……大義であった、アルベルト。……貴殿の『掃除』は、いつも余の心を晴れやかにしてくれる」

 ルナリスは、戦場となったはずの回廊が、戦闘前よりもさらに美しく磨き上げられていることに満足げに頷いた。


 アルベルトは、最高幹部たちを見渡した。

「さて……。大掃除の後は、皆様の再メンテナンスが必要です。……バルバラ様、鎧の傷。メルヴィ様、魔力の余波。ゼノビア様、影の綻び。……そしてルナリス様。貴女様の、その僅かな『苛立ち』を整えさせていただきます」


 侵略者を退けた魔王城。

 だが、その平和を維持するための「至高のメンテナンス」は、勝利の余韻と共に、より一層深く、熱く、今夜も密室で行われるのであった。


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