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第35話:筆頭の規律と、密やかな背徳

 魔王城「パンデモニウム」の回廊に、軍靴の硬質な響きが渡る。

 最高幹部筆頭、カサンドラは、手に持った執務手帳をきつく握り締め、眉間に深い皺を刻んでいた。


「……信じられん。規律も、矜持も、この城からは消え失せたというのか」


 彼女が目にする光景は、あまりにも「執事一色」に染まりすぎていた。

 訓練場ではバルバラがアルベルトに教わった柔軟体操に余念がなく、図書室ではメルヴィがアルベルトの淹れた茶を啜りながら「至高の安らぎだよぉ」と呟いている。さらには影の中からゼノビアがアルベルトの燕尾服の予備を抱えて嬉々として走り去る姿まで目撃してしまった。


 魔王ルナリスの教育係として、そして城の法として、カサンドラはこの現状を「風紀の退廃」と断じた。……だが、そう自分に言い聞かせる彼女自身の心臓は、アルベルトの名前を思い浮かべるだけで、規律に反する速さで脈打っていた。


「筆頭閣下。……廊下をそのように険しい顔で歩かれては、城の魔力伝導率が下がってしまいますよ」


 背後から響く、聞き慣れた、そして耳の奥が熱くなるような低い声。

 カサンドラが振り返ると、そこには一点の曇りもない白手袋を嵌め直しているアルベルトが立っていた。


「……アルベルト。貴殿か。ちょうどいい、物申したいことが山ほどある」

「おやおや。不機嫌な上司ほど、お世話のしがいがあるものはありませんね。……ですが、閣下。お喋りの前に、その首元のスカーフ。……僅かに、三ミリほど左に寄っています」

「な……っ!? そのような細かいことを……!」


 アルベルトは迷いなくカサンドラの間合いへと踏み込んだ。

 カサンドラは反射的に腰の剣に手をかけようとしたが、アルベルトが放つ「管理者のオーラ」に圧倒され、金縛りにあったように動けなくなる。

 アルベルトの指先が、彼女の喉元に触れる。冷たいはずの白手袋を通して、彼の体温が直接肌に伝わり、カサンドラの思考は一瞬で白濁した。


「……規律を説く貴女自身が、最も『乱れて』おいでだ。……カサンドラ様。貴女のその瞳の奥。……溜まりに溜まった責任感という名の澱みが、貴女の美しい銀髪を僅かに濁らせていますよ」

「……だ、だまれ……。私は、筆頭なのだ。……私までが貴殿に甘えては、この城の法が……崩れてしまう……っ」


「法を維持するのは装置ではありません。血の通った一人の女性です」

 アルベルトは、彼女の耳元に唇を寄せ、周囲の兵士には聞こえぬほど低い声で囁いた。

「……ルナリス様から、許可をいただいております。……今夜、閣下の『規律』が本物かどうか……私の部屋で、じっくりと抜き打ち検査メンテナンスをさせていただく、と」


「……魔王様が、許可を……?」

 カサンドラの顔が、一気に沸騰したように赤くなる。

 魔王ルナリスは、自分が独占する一方で、教育係であるカサンドラの限界を察し、アルベルトに「あやつも救ってやれ」と、慈悲(という名の嫉妬混じりの譲歩)を与えたのだ。


「……さあ、参りましょうか。……筆頭としての鎧を脱ぎ、私に従順な一人の教え子に戻る時間です」


 アルベルトに手首を掴まれ、抗うこともできずに歩き出すカサンドラ。

 彼女の背中は、恐怖ではなく、これから受けるであろう「背徳的な安らぎ」への期待に、小さく震えていた。


 アルベルトの私室。そこは魔王城の中で最も「規律」が完成された、塵一つ存在しない無機質なまでに完璧な空間であった。

 カサンドラは、中央に置かれた革張りの椅子に座らされ、正面に立つアルベルトの視線を真っ向から受けていた。彼女の軍服は、彼に「乱れ」を指摘された箇所以外、一点の隙もなく着こなされている。だが、その指先は膝の上で細かく震え、喉は乾ききっていた。


「……アルベルト。抜き打ち検査とは、一体何を……。公務の不備を指摘するなら、書面で済むはずだ」

「書面で済むのは事務的な欠陥のみです。カサンドラ様、私が問題にしているのは、貴女という『城の心臓』の、あまりに不潔な自己犠牲精神です」


 アルベルトは無言でカサンドラの背後に回り、彼女の軍服の襟元を固定している留め金に手をかけた。

「な……っ!? 待て、何を……!」

「規律の確認です。閣下、貴女は魔王様を守るために、己の魔力を常に『硬化』させている。……そのせいで、皮膚の感覚が麻痺し、女性としての瑞々しさが損なわれつつある。……執事として、この放置された劣化を見過ごすわけにはいきません」


 カチャリ、と金属の触れ合う冷たい音が響き、カサンドラの軍服の襟が大きく開かれた。

 露わになった白磁のうなじには、過剰な魔力循環の代償である「呪印」が、血管のように赤く浮き上がっていた。

「……見苦しいだろう。……これが、魔王城を支える者が背負うべき『汚れ』だ。……人間に、洗えるようなものではない……っ」


「いいえ。洗えない汚れなど、この世には存在しませんよ」

 アルベルトは、温めた特製の香油を自らの掌に取り、それをカサンドラのうなじへと、容赦なく、かつ慈しむように押し当てた。

「ひ……、あぁ…………ッ!!」

 カサンドラの身体が、背徳的な熱量に貫かれて跳ねる。

 アルベルトの指先が、彼女の呪印に沿って、精密な魔力調律メンテナンスを開始した。一突きごとに、数百年分の「義務感」が、指先の圧力によって物理的に粉砕されていく。


「閣下。貴女は『法』になろうとしすぎた。……ですが、今の貴女はただの、私の指先に震える一人の、か弱き女性に過ぎません」

 アルベルトの囁きが耳元で熱を帯びる。カサンドラの銀の瞳は潤み、その視界は白濁していった。彼女を縛っていた「鉄の規律」が、アルベルトという劇薬によって、ドロドロと蕩けた蜜へと書き換えられていく。


「……あ、あぁ……っ。……アルベルト……。……もう、いい……。……私は……汚れて……壊れて……」

「壊れるのではありません。……私が、貴女を『再構築』しているのです。……主人のために、もっと美しく、もっとしなやかに」


 アルベルトは、崩れ落ちようとするカサンドラの身体を正面から抱きとめ、彼女の耳の裏側――最も魔力が集中する秘部を、舌先と指先で同時に「洗浄(愛撫)」した。

「ん、んんぅ…………ッ!!」

 規律の権化、カサンドラの絶叫。それは屈辱ではなく、自分を縛るすべてをアルベルトに委ね、支配される悦びに震える、魂の慟哭であった。


 翌朝。

 執務室に現れたカサンドラの姿に、ルナリスをはじめとする最高幹部たちは息を呑んだ。

 軍服のボタンは一つも乱れていない。だが、その肌からは透き通るような魔力の光が溢れ、瞳には、厳しい規律の裏側に「隠しきれない情熱」が宿っていた。

 彼女は、アルベルトと視線が合うたびに、軍服の襟をギュッと握りしめ、顔を伏せるようになった。


「……カサンドラ。貴殿、アルベルトの『検査』はどうであったか?」

 ルナリスの意地悪な問いに、カサンドラは消え入りそうな声で答えた。

「……ルナリス様。……教育係として、認めざるを得ません。……あの執事は、この城の……いえ、私の規律そのものを、根底から書き換えてしまったようです……」


 最高幹部筆頭、カサンドラ。

 彼女は今や、城の法を守る者ではなく、アルベルトという名の「新しい法」に跪く、最も忠実なしもべと化していた。



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