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第34話:影の番犬と、執事の休息日

 魔王城「パンデモニウム」が完成し、全機能が完璧な調律メンテナンスを終えてから、一つの懸念が浮上していた。

 それは、主である魔王ルナリスをはじめ、最高幹部たちが一人の執事に「依存」しすぎていること――ではなく、執事アルベルト自身が、着任以来、一分一秒たりとも「休息」を取っていないという事実であった。


「……アルベルトよ。余は決めたぞ。本日、貴殿に二十四時間の『完全休暇』を命ずる。これは魔王としての絶対命令だ」

 ルナリスは、いつになく厳しい表情でアルベルトを見据えた。

「ルナリス様。執事が休むのは、この世から不浄が消え去った時のみです。まだ城門の隅に僅かな魔力の澱みが……」

「だまれ! 貴殿が倒れては、この城は三日でゴミの山に戻るのだぞ! 貴殿の健康を守ることも、主人の重要な職務だ!」


 ルナリスは、抵抗するアルベルトを魔法の糸で強引に縛り上げ(それすらもアルベルトは「結び目が甘いです」と指摘したが)、城の最上階にある、最も日当たりと風通しの良い「安息の寝室」へと連行した。


 そこは、アルベルトがルナリスのために用意した聖域だったが、今、彼はそのふかふかのベッドに押し倒されていた。

「……ルナリス様。このように拘束されては、公務に支障が」

「公務など、バルバラたちにやらせておけばよい! 今夜、貴殿の仕事は『眠ること』ただ一つだ。……良いか、余が戻るまで、指一本動かすなよ」


 ルナリスは、アルベルトの燕尾服を(不器用に)脱がせ、ワイシャツ姿にすると、彼に最高級の安眠を誘う香油を塗り込んだ。

 数分後。

 鉄人と呼ばれた執事も、主人の魔力が込められた執拗なまでの「逆メンテナンス」には抗えず、数年分の疲労が泥のように押し寄せ、ついに深い、深い眠りへと落ちていった。


 アルベルトの、規則正しい、静かな寝息。

 それを確認したルナリスは、満足げに微笑み、扉を閉めた。

「……ふふ。これでよし。アルベルト、ゆっくり休むが良いぞ」


 だが。

 扉が閉まった瞬間、廊下の左右、そして天井と影から、三つの殺気が立ち上った。


「……魔王様。アルベルトを一人にするのは、防犯上、極めて危険だとは思いませんか?」

 白銀の鎧をカチャリと鳴らし、壁に寄りかかっていたのは将軍バルバラだ。

「あはは。……そうだねぇ。もし執事さんの夢の中に、不潔な悪霊が入り込んだら大変だ。……僕が脳波を監視してあげなきゃ……」

 メルヴィが、怪しく光る魔導具を手に歩み寄る。

「……影の守護。……あたいの役目だ。……中に入らせてもらうよ」

 ゼノビアが、扉の隙間から影を滑り込ませようとしていた。


「貴殿ら!! そこで何をしている!」

 ルナリスが般若のような顔で振り返る。

「アルベルトは今、余の命令で休んでいるのだ! 邪魔をすることは許さぬ!」


「邪魔などしません。……ただ、彼の『無防備な背中』を、外敵から守るだけです」

 バルバラが一歩も引かずに宣言する。

「あはは。……独り占めは規律違反だよ、魔王様。……ねぇ、カサンドラ様もそう思うでしょ?」


 廊下の角から、筆頭カサンドラが冷徹な事務手帳を片手に現れた。

「……執事の休息は、城の安全管理に直結します。……したがって、彼の睡眠が『規律正しく』行われているか、私が直々に監察する必要があります。……魔王様、異論はありませんね?」


 最高幹部全員が集結した。

 目的は一つ。――無防備に眠る、あの完璧な執事の「隣」という、魔王城最大の聖域を占拠すること。


 ルナリスの独占欲、バルバラの守護本能、メルヴィの知的好奇心、ゼノビアの依存心、そしてカサンドラの義務感。

 眠りについたアルベルトの周囲で、魔王軍を二分しかねない「静かなる侵入競争」が、今幕を開けようとしていた。


 「不潔な侵入は、筆頭である私が許しません」

 カサンドラが厳格に宣言し、ルナリスの制止を無視して静かに扉を開けた。それに続くように、バルバラ、メルヴィ、そして影に溶け込んだゼノビアが、呼吸を殺して聖域へと足を踏み入れる。


 部屋の中には、カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光と、アルベルトが常に纏っている清潔な石鹸とハーブの香りが満ちていた。

 ベッドの上、いつもは鉄の規律を体現している執事が、今はワイシャツの襟を僅かに緩め、無防備な寝顔を晒している。眼鏡モノクルを外したその素顔は、最高幹部たちの想像以上に若々しく、そして――ひどく、心細くなるほどに穏やかであった。


「……あ、ああ……。アルベルトが、あんなに……人間らしく眠っている……」

 バルバラが、熱に浮かされたように呟いた。彼女は無意識に、彼の手入れされた指先に触れようと手を伸ばす。

「待ってよ、バルバラ様ぁ。……まずは僕が、彼の脳の深層までリラックスできているか、この魔導波で確認するのが先だよぉ……」

 メルヴィが顔を寄せ、アルベルトの額に自分の額を重ねようとする。


「どけ、二人とも! 一番近くで守るのは、あたいなんだから……っ!」

 ゼノビアが影から実体化し、アルベルトの腕を抱きしめるようにしてベッドの脇に跪く。

「ええい、貴殿ら!! 余のベッドから離れぬか! アルベルトの隣は、余の指定席だと言っているだろう!」

 ルナリスが最後尾から飛び込み、アルベルトの反対側の腕を確保した。カサンドラまでもが、「規律の確認」と称して、彼の寝乱れたシャツのボタンを指先でなぞっている。


 最高幹部全員に囲まれ、触れられ、執着を向けられる異常な空間。

 だが、その熱気が臨界点に達した瞬間。


「…………三十二分」

 低い、凛とした声が部屋に響いた。


「「「「「……っ!?」」」」」

 全員の動きが凍りつく。

 アルベルトの瞼がゆっくりと開き、外されていたはずのモノクルが、いつの間にか彼の手に握られ、完璧な動作で装着された。


「私が眠りについてから、皆様がこの部屋に侵入し、私の『安息』を妨害し始めるまでの時間です。……予想より、五分ほど遅い到着でしたね」

 アルベルトは、自分に縋り付いているルナリスやゼノビア、至近距離にいたメルヴィたちの視線を、冷徹なまでに冷静な瞳で射抜いた。


「ア、アルベルト……! 貴殿、起きていたのか!?」

「執事にとって、主人の気配を察知できぬ眠りなど、死と同義です。……ルナリス様、そして皆様。……私の休息を案じてくださったのは感謝いたしますが、その代償として、この部屋の『秩序』が著しく乱れました」


 アルベルトは、自分を囲んでいた四肢を、魔法のような流麗な手捌きですべて優雅に、かつ有無を言わせぬ力で解いた。

「……バルバラ様、殺気が漏れています。メルヴィ様、よだれを垂らさないでください。ゼノビア様、私の服をシワにするのはマナー違反です。カサンドラ閣下、規律を説く貴女が、一番熱心に私の胸元を凝視しておいででしたね」


「なっ……! そ、それは……!」

 カサンドラが顔を真っ赤にして後退りする。アルベルトはベッドから降り、乱れたワイシャツの襟を一瞬で正すと、背後に控えていたルナリスに向き直った。


「ルナリス様。主人のわがままは、私の『お世話』で解消されるべきものです。……皆様、私の休息を奪った責任は、これからじっくりと、個別メンテナンス(再教育)という形で取らせていただきます」


 アルベルトの不敵な微笑。

 最高幹部たちは、その「お仕置き」という名の濃厚な奉仕を予感し、恐怖よりも深い期待感に震えた。

「……さて。まずは、一番騒がしかったルナリス様から。……皆様は、外の廊下で『規律正しく』整列して、順番を待ちなさい。……いいですね?」


 アルベルトが指を鳴らすと、扉がバタンと閉まり、ルナリスだけが部屋に取り残された。

「あ、アルベルト……。……お手柔らかに、頼むぞ……?」

「滅相もございません。……貴女様が二度と、私の寝顔を他の女に見せたくないと思うほどに、たっぷりと『お世話』して差し上げますよ」


 魔王城の休息日は、結局のところ、執事による「愛の管理」がより一層激化する、最高に不潔で、最高に清潔な夜へと変わっていったのである。


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