第30話:【特別回】魔王城完成記念夜会 〜執事の隣は、唯一無二の特等席〜
魔王城「パンデモニウム」の夜。空には魔界特有の双子が如き紫の月が重なり合い、城全体を妖しくも神聖な光で包み込んでいた。
かつては血の匂いと絶叫が支配していたこの居城は、今やアルベルトという一人の執事の手によって、世界で最も過酷にして最も甘美な「秩序」が支配する聖域へと作り替えられた。
今夜、大広間で執り行われるのは、城内の全機能の最適化完了を祝う記念夜会である。
広大な会場には、アルベルトが人間界の秘術を転用して磨き上げたクリスタルのシャンデリアが輝き、魔界の稀少な花々が放つ芳香が、冷たい石造りの空間を至高のサロンへと変貌させていた。
その宴の中心。一点の曇りもない漆黒の燕尾服を纏い、まるで影そのものが形を成したかのような端正な姿で立つアルベルトの周囲には、既に「嵐」の予感が漂っていた。
「……アルベルト。今日の俺の姿、どうだ。……貴様に言われた通り、指先の角質まで完璧に整えてきたぞ」
最初に「おねだり攻勢」を仕掛けたのは、魔王軍最高幹部が一人、将軍バルバラであった。
彼女は今夜、自慢の白銀の鎧を脱ぎ捨て、アルベルトが彼女の筋肉のラインに合わせて仕立てた、真紅のイブニングドレスに身を包んでいる。磨き上げられた褐色の肌、気高く整えられた所作。だが、その瞳には、武人としての誇り以上に、一人の女性としての「渇望」が宿っていた。
「……合格点です。バルバラ様。ですが、そのように肩を強張らせては、せっかくのドレスのラインが崩れます。……失礼」
アルベルトは、バルバラの背後に回り、ドレスの隙間から覗く逞しくも滑らかな肩甲骨に、指先で微かな魔力刺激を与えた。
「ひ……、あぁ…………っ!!」
バルバラの口から、艶やかな吐息が漏れる。会場の兵士たちが驚愕に目を見開く中、彼女はアルベルトの腕を自分の胸元に引き寄せ、熱っぽい視線を送った。
「アルベルト……。この肉、俺の口には少し大きい。……小さく切って、俺に『あーん』をしろ。……これは、将軍としての命令だ」
その瞬間、会場の気温が物理的に数度下がった。
「……バルバラ。貴殿、余の目の前で、何という破廉恥な真似を」
ゆったりとした歩調で、しかし凄まじい威圧感を纏って現れたのは、魔王ルナリスである。
彼女はアルベルトが用意した、夜空を切り取ったかのような深い紺色のドレスを纏い、その頭上の小さな角には、平和の象徴である月涙石が飾られている。
「魔王様! これは、その、俺のコンディション調整の一環で……!」
「だまれ。調整なら余が許可した時にやれ。……アルベルト! バルバラから離れよ。今すぐだ!」
ルナリスがアルベルトの右腕を強引に抱き寄せると、今度は左側からふわりと、紫色の煙のような気配が迫った。
「あはは。魔王様も将軍様も、相変わらず血の気が多いねぇ。……執事さん、僕、脳が情報のノイズでオーバーヒートしちゃったみたいなんだよぉ……」
参謀メルヴィである。彼は清潔な礼装に身を包みながらも、その場に力なく座り込み、アルベルトの膝を指差した。
「ここで少しだけ、僕の脳内ファイルをバックアップさせてくれないかなぁ? ……そう、執事さんの特製膝枕でさぁ……」
「メルヴィ様。公衆の面前での幼児退行は、参謀としての品格を下げます」
アルベルトは冷徹に言い放ちつつも、メルヴィの「本当に疲れ切った魔力波長」を瞬時に読み取り、空いた左手で彼の頭を優しく、しかし強制的に「調律」し始めた。
「あぁ……っ、これこれ。……やっぱり、君の手じゃないと、僕は正解に辿り着けないよぉ……」
「貴様らぁぁ!! 余の執事を、分割払いの資産のように扱うな!!」
ルナリスの咆哮。だが、さらに追い打ちをかけるように、アルベルトの背後の「影」から琥珀色の瞳が覗いた。
「……あたいの髪、少し乱れてる気がする。……他の奴らに見つからないように、影の中で整えておくれよ。……アンタの指先がないと、あたい、また夜の底に落ちちまいそうだ……」
影の中から伸びるゼノビアの手が、アルベルトの燕尾服の裾をギュッと握りしめる。
さらに追い打ちをかけるように、最高幹部筆頭カサンドラが、僅かに頬を染めながら、わざと軍服のボタンを一つ外して近づいてきた。
「……執事。規律が乱れている。……直せ。今すぐ、貴殿のその指先で、完璧にだ」
将軍の「あーん」、参謀の「膝枕」、諜報員の「密やかな接触」、そして筆頭の「支配的ケア」の要求。
ルナリスは、四方八方から自分の執事が奪われていく光景に、ついに独占欲が臨界点を突破した。
「……だ、だまれぇぇい!! この不届き者どもめ!! アルベルトは余のものだ! 余一人のための執事なのだぞ!!」
ルナリスの魔力が爆発し、会場に激しい風が吹き荒れる。
だが、その嵐の真ん中で、アルベルトだけは、微塵の揺らぎもない完璧な姿勢を保っていた。
「……皆様。……少々、はしゃぎすぎですね。……主人の前でこのような『乱れ』を見せるとは。……執事として、徹底的な再教育が必要なようです」
アルベルトのモノクルの奥で、冷徹で、しかし抗いがたい支配の光が宿った。
狂乱の夜会は、一人の執事による「全員同時制裁」という、さらなる混沌へと突き進んでいく。
魔王城「パンデモニウム」の大広間に、暴風のごとき魔力の残滓が吹き荒れる。
最高幹部たちが放つ、一人の執事を奪い合わんとする剥き出しの独占欲。将軍バルバラの闘気、参謀メルヴィの情報の重圧、諜報員ゼノビアの影の浸食、そして筆頭カサンドラの絶対的規律。それらが混ざり合い、もはや夜会の体裁は崩壊寸前であった。
その中心で、魔王ルナリスの咆哮が響き渡った。
「だまれと言っているのだ! アルベルトは余の……余一人の、執事なのだぞ!!」
ルナリスの真紅の瞳は、激しい怒りと、それ以上に深い「奪われることへの恐怖」に揺れていた。彼女がアルベルトの右腕を離さぬよう力を込めれば、他の者たちも一歩も引かずに執事の身体へ、あるいは影へと縋り付く。
だが、その混沌を断ち切ったのは、爆発的な魔法でも、怒鳴り声でもなかった。
カツン、と。
アルベルトが、左手に持っていた給仕用のシルクトレイの縁を、右手の指先で僅かに弾いた。
ただ、それだけの音。
しかし、その音はアルベルトが事前に会場全体に張り巡らせていた「静寂の術式」を起動させる合図であった。一瞬にして魔力の荒れ狂う音が消え去り、最高幹部たちはまるで時が止まったかのように、その場に縫い止められた。
「……皆様。……少々、はしゃぎすぎですね」
アルベルトの声は、どこまでも穏やかで、しかし絶対的な「拒絶」を孕んでいた。
彼はルナリスの拘束を、指先一つの軽やかな動きで解き、同時に影から這い出そうとしていたゼノビアを「光の固定」で封じ、バルバラの剣を抜こうとした腕の経絡を優雅に突いた。
「バルバラ様、ケーキはご自身で召し上がりなさい。メルヴィ様、膝枕が必要なほどお疲れなら、明朝まで睡眠を命じます。……そしてカサンドラ閣下。規律を直せと仰るなら、まずはご自身のその、嫉妬で乱れた呼吸を整えるのが先決ではありませんか?」
アルベルトは、トレイの上に残っていた五人分の飲み物とスイーツを、まるで手品のように同時に、かつ完璧なタイミングで全員の前へと滑らせた。
「不満は、これをすべて召し上がってからにしてください。……不機嫌な主人の相手をするほど、私は暇ではありませんので」
執事の冷徹な一喝。
最高幹部たちは、その有無を言わせぬ「管理者の眼差し」に射抜かれ、毒気を抜かれたように大人しくなった。アルベルトの差し出した「調律の味」は、彼女たちの熱を帯びた心を瞬時に冷却し、完璧なコンディションへと強制的に引き戻したのである。
やがて、夜会の喧騒が落ち着きを見せ、幹部たちがアルベルトから与えられた「宿題(あるいはご褒美)」に没頭し始めた頃。
アルベルトは、まだ一人、納得のいかない顔で頬を膨らませていたルナリスへと向き直った。
「ルナリス様。……場所を変えましょうか。……この後の公務は、既に中止してあります」
「……当たり前だ。……今夜はもう、余以外の誰にも触れさせんからな」
アルベルトはルナリスをエスコートし、城の最上階にある月見のバルコニーへと向かった。
そこは、他の誰の気配もしない、二人きりの空間。
夜風がルナリスの長い髪を揺らし、アルベルトは彼女のために、星の光を溶かし込んだような、最高級の月光茶を淹れた。
「……アルベルト。……貴殿は、本当にずるい」
ルナリスは、カップを受け取ることなく、アルベルトの燕尾服の胸元に顔を埋めた。
「バルバラたちに施した、あの手際の良さ。……余は、それを見るたびに、自分がただの『大勢の中の一人』になったようで、怖くなるのだ」
「ルナリス様。……それは大きな誤解です」
アルベルトは、ルナリスの細い手を取り、その指先に、誓いを立てるように唇を寄せた。
「あの方々に施したのは、城の機能を維持するための『部品の整備』に過ぎません。……ですが、貴女様は違います」
アルベルトはルナリスを抱き寄せ、彼女の耳元で、甘く、そして深い独占欲を込めて囁いた。
「あの方々の『おねだり』は、私の義務としてすべて片付けました。……ですが、私の『魂』が、何を望み、誰に捧げられているか。……貴女様なら、お分かりのはずでしょう?」
ルナリスの顔が、一気に熱くなる。
アルベルトは彼女の顎を優しく掬い上げ、逃げ場を奪うようにその瞳を見つめた。
「……さて、ルナリス様。……家臣たちの『おねだり』はすべて終わりました。……最後に、貴女様(ご主人様)のおねだりは、いかがいたしましょうか? ……夜明けまで、どのような我儘でも、私が責任を持って『お世話』させていただきますよ」
「……っ、アルベル……ト……!!」
ルナリスは、執事の首に腕を回し、その支配的な愛情に全身で身を委ねた。
魔王の独占欲は、今、一人の執事の腕の中で、この上ない幸福として成就されたのである。
魔王城完成記念夜会。
それは、一人の執事によって「魔王が唯一の主人である」という新秩序が、最高幹部たちの羨望の中で確定した夜となった。




