第29話:参謀の演算と、知能の外部委託
魔王城の時計塔。かつては数百年のガラクタが堆積していたその場所は、今やアルベルトが構築した「思考の聖域」として、魔界全土の数値を司る心臓部となっていた。
だが、その静寂を破るように、部屋の奥からは激しい羊皮紙の擦れる音と、情緒不安定な独り言が漏れ出していた。
「……あはは。ダメだ、合わない。人間界の通貨流動性と、魔界の魔石消費率の相関関係が……。……あと、一万通りのシミュレーションが必要だなぁ。……脳が、燃えるみたいに熱いよぉ……」
参謀メルヴィは、清潔なシャツの襟を乱し、床に這いつくばって魔法陣を書き殴っていた。和平の成立によって、これまで「破壊」にのみ向けられていた彼の超天才的知能は、今や「経済」「外交」「インフラ整備」という、果てしない情報の荒波に曝され、文字通り焼き切れようとしていたのである。
その時。
カツ、カツ、カツ、と。
焦燥に満ちた時計塔に、完璧な規律を刻む足音が響き渡った。
「メルヴィ様。……知性の極致にある者が、地を這い、床を汚すなど。……主人の『頭脳』としての自覚が、欠如していると言わざるを得ませんね」
扉を開けて現れたのは、不動の姿勢を保つアルベルト。そしてその隣には、当然のように彼の腕を抱き、魔王としての威厳と「正妻」としての余裕を纏ったルナリスの姿があった。
「メ、メルヴィ……。貴殿、またそのような無様な姿を晒しているのか」
ルナリスは、アルベルトに寄り添いながら、ゴミ一つないはずの床に這いつくばるメルヴィを、哀れみと……そして、僅かな警戒心を持って見下ろした。
「……あ、あはは。……魔王様。……それに、執事さん。……助けてよぉ。僕の脳内、今、三千年前の大爆発が起きてるみたいな状態なんだよぉ……」
メルヴィが縋るような瞳をアルベルトに向ける。彼はアルベルトに近づこうとしたが、その前にルナリスがアルベルトの腕を強く引き寄せ、自分の背後に隠すように立った。
「……待て。メルヴィ。アルベルトを頼る前に、まずは余に報告せよ。参謀として、職務を全うするのが先だろう?」
「えぇ……。魔王様。今の僕には、主語と述語を正しく繋ぐだけの、リソースすら残ってないんだぁ。……執事さん、お願い……。僕の頭を、もう一度整理してぇ……」
アルベルトは、ルナリスの肩を優しく、しかし確固たる意志を持って解した。
「ルナリス様。……故障した時計を無理に動かせば、部品が砕け、二度と時を刻めなくなります。……魔王城の貴重な資産を損失させぬよう、私が『緊急オーバーホール』を執り行います。……貴女様は、こちらで視察(監視)をお願いいたします」
アルベルトはルナリスを専用の安楽椅子に座らせると、メルヴィの背後へと歩み寄った。
「……失礼。……メルヴィ様。貴方の思考ログ、一度すべて私が預かります」
アルベルトの両手が、メルヴィのこめかみを強く、正確に圧迫した。
瞬間、メルヴィの瞳から、濁った熱がスッと引いていく。アルベルトの指先から流れ込むのは、精密な「冷却魔力」と、情報の「自動ファイリング・パルス」であった。
「……あ、あ、は…………ぁ…………ッ!!」
メルヴィの口から、官能的なまでに蕩けた吐息が漏れる。
暴走していた数万の演算式が、アルベルトの手によって、あるべき場所へと瞬時に収納されていく。脳内のゴミを一つずつ取り除かれ、純粋な「答え」だけが抽出されていく快感に、メルヴィの身体が痙攣するように震えた。
「……バルバラ様への調律とは、方法が異なります。……貴方には、肉体の快楽ではなく、精神の『空白』という名の報酬を与えましょう」
アルベルトの指が、メルヴィの後頭部に触れる。
ルナリスは、その光景を食い入るように見つめながら、自分の膝の上に置いていた手に力を込めた。自分の知らない「男」としてのアルベルトの手際。そして、その手に弄ばれ、自分には見せたことのない恍惚の表情を浮かべる参謀。
「……アルベルト。……あまり、メルヴィを甘やかすなと言ったはずだ。……知能が戻れば、それで十分ではないか」
「ルナリス様。……過熱した機体は、冷却後の『潤滑剤(甘い報酬)』がなければ、次回の起動で不具合を起こします。……メルヴィ様、本日の分の演算は、私がすべて整理しておきました。……貴方はこれから、私の膝の上で、三十分間の『無』を味わいなさい」
「……えへへ。……やっぱり、執事さんの管理は、最高だなぁ……」
メルヴィが、アルベルトの膝の上に頭を乗せようとした、その刹那。
「――ならぬ!!」
ルナリスが立ち上がり、アルベルトの膝を自分の手で塞いだ。
「……メルヴィ。貴殿の膝枕は禁止だ! アルベルトの膝は……余の、指定席なのだぞ!」
アルベルトは、困ったような微笑を浮かべ、空いた方の手でルナリスの腰を引き寄せ、もう一方の手でメルヴィの頭を撫でた。
「……困った主人たちですね。……魔王様を抱きつつ、参謀の脳を癒やす。……これほど難易度の高い『並列処理』を私に要求するとは。……ですが、それこそが執事の真骨頂というものでしょう」
ルナリスの独占欲、メルヴィの依存心。
二人の女を、アルベルトは冷徹なまでの完璧な手際で同時に御し、時計塔に再び静謐な秩序を取り戻した。
「……さて。メルヴィ様の脳は冷却完了。主人の機嫌も、メンテナンスの予約でなんとか保てました。……次は、影の中で不貞腐れている『あの娘』のところへ向かいましょうか。……もちろん、魔王様、貴女様とご一緒に」
アルベルトは、ルナリスを優雅にエスコートしながら、次なる「調律」へと向かう。
魔王城の平和は、一人の執事による「愛という名の管理」によって、今日も危うい均衡を保っていた。




