第31話:主人の恩返し 〜魔王様の秘密の逆お世話〜
魔王城「パンデモニウム」に、かつてない不穏な、しかし平和な空気が流れていた。
魔王軍最高幹部たちは、それぞれの持ち場でアルベルトによって最適化された職務に励んでいたが、その頂点に君臨する魔王ルナリスだけは、ここ数日、自室の奥深くに引き籠もっていたのである。
「……うむ。まずは茶葉の選別。温度は九十度……いや、アルベルトの好みは僅かに低めの八十五度だったか? ……そして、マッサージの基本は『愛』の注入……」
ルナリスは、人間界から秘密裏に取り寄せた『一流執事の心得:初級編』という本を、まるで禁忌の魔導書か何かのように真剣な眼差しで読み耽っていた。
彼女の目的は、ただ一つ。
いつも自分や部下たちを完璧に整えてくれるアルベルトに対し、今度は自分自身の手で「至高の安らぎ」をプロデュースし、彼を驚かせ、そして――自分なしではいられない身体にしてやることだ。
「アルベルトは、常に余たちのために動き続けている。……あやつの燕尾服にシワ一つないのは、あやつが影で血の滲むような努力をしているからに他ならん。……ならば、余があやつのシワを伸ばし、あやつの疲れを『お世話』してやるのが、真の主人の慈悲というものだ!」
ルナリスは拳を握りしめ、鼻息荒く決意を固めた。
だが、現実は残酷である。
これまで「破壊」と「統治」しか教わってこなかった魔王にとって、繊細な家政技術は、古の封印魔法を解くよりも困難な作業であった。
まずは紅茶の練習だ。
ルナリスが指先から微かな魔力を放ち、湯を沸かそうとする。だが、加減を誤れば一瞬でポットが爆発し、弱めればいつまで経ってもぬるま湯のままだ。
「……ぬぅ。なぜアルベルトは、あのように涼しい顔で、一滴の無駄もなく湯を操れるのだ。……このポット、余を馬鹿にしているのではないか?」
ポットを睨みつけ、魔王の威圧感で無理やり湯を沸騰させようとするルナリス。当然、そんな方法で淹れた茶が美味しくなるはずもなく、彼女は何度も苦い煮汁のようなものを飲み干しては、顔を顰めていた。
次に、マッサージの練習。
練習台として呼び出されたのは、運悪く廊下を通りかかった将軍バルバラであった。
「バ、バルバラ。余の『慈悲』を授けてやる。そこへ直れ」
「はっ! 魔王様の御手、ありがたく……って、ぐあぁぁぁぁッ!? ま、魔王様! 肩が、肩の骨が砕けますっ!!」
「……あ、すまぬ。……執事の心得には『力を込めよ』と書いてあったのだが……」
「それは人間の力加減での話です! 魔王様の握力でやられたら、俺は再起不能になります!」
バルバラに逃げられ、メルヴィには「僕の脳がシェイクされちゃうよぉ」と拒否され、ゼノビアは影に潜って出てこない。
ルナリスは一人、途方に暮れていた。
しかし、彼女は諦めなかった。アルベルトが自分にしてくれたように、ただ「完璧」であればいいのではない。大切なのは、相手を想う心だと、本に書いてあったからだ。
そして。
ルナリスはついに、アルベルトを自分の寝室へと呼び出した。
「アルベルトよ。……今夜は、貴殿の公務を一切禁ずる。……余が、貴殿の『お世話』をさせていただく。……座れ。これは……王命、ではなく、一人の女としての、願いだ」
アルベルトは、モノクルの奥で僅かに瞳を見開いた。
主人の手に握られた、端がボロボロになった執事の教本。そして、机の上に置かれた、明らかに淹れ直した形跡が数十回分ある、震えるようなお茶のセット。
「……左様でございますか。……そこまで仰るなら、謹んで。……私のすべてを、貴女様に預けましょう」
アルベルトは静かに、しかし深い期待を込めて、ルナリスの前に腰を下ろした。
魔王による、史上最も不器用で、最も熱い「逆メンテナンス」が、今幕を開ける。
魔王ルナリスの寝室は、今、魔界のどの戦場よりも濃密な緊張感に包まれていた。
普段は完璧な給仕で主人を蕩けさせる側であるアルベルトが、今は椅子に深く腰掛け、されるがままの状態で主君と対峙している。その目の前では、ルナリスが震える手でティーポットを握りしめ、一滴の雫を落とすことさえ命懸けであるかのような形相で、カップに茶を注いでいた。
「……よし。溢れていないな。温度も、アルベルトが好む『喉を愛撫するような温かさ』を再現したつもりだ」
ルナリスは額に滲んだ汗を手の甲で拭い、自信なさげに、しかし期待に満ちた瞳でカップを差し出した。
アルベルトは無言でそれを受け取り、口に運ぶ。
ルナリスが数日間、それこそ魔導書を読み解くよりも熱心に研究し、数百回の失敗を経て辿り着いた「執事への一杯」。
「…………。……驚きました。ルナリス様、貴女様は、私の喉が僅かに乾燥していたことを見抜いて、蜂蜜の分量をコンマ単位で調整されましたね?」
「な……っ!? わ、わかったか。……貴殿はいつも余の体調を優先するからな。たまには逆でも良かろう」
「……至高の味わいです。執事として、これ以上の報酬はこの世に存在しません」
アルベルトの穏やかな微笑。それを見たルナリスの心臓は、まるで初心な少女のように跳ね上がった。
だが、彼女の「逆お世話」はこれだけでは終わらない。彼女はアルベルトの膝元に膝を突き、彼の大きな手を両手で包み込んだ。
「アルベルトよ。……貴殿の手は、いつも冷たくて、それでいて力強い。だが……今日は少し、指先が強張っているのではないか? ……余が、解してやろう」
ルナリスは、アルベルトの手を自分の柔らかな頬に当て、それから不器用な手付きでマッサージを開始した。
「バルバラの時のような怪力は出さぬ。……メルヴィのように脳を揺らしたりもせぬ。……ただ、貴殿がいつも余にしてくれるように……。余の『愛』を、貴殿に注ぎたいのだ」
魔王の小さな指が、アルベルトの長い指の節々を、丁寧に、慈しむように揉み解していく。
アルベルトは、モノクルの奥の瞳を僅かに細めた。
自分は「仕える身」であり、常に与える側であった。だが、主人が真っ赤な顔をして、自分という「道具」を労り、一人の「男」として大切に扱おうとしてくれるその純粋な献身に、冷徹な執事の心は、かつてないほどの熱を帯びていく。
「……ルナリス様。……これ以上は、私の理性が『規律』を忘れてしまいそうです」
「構わぬ! 今夜は余が主人で、貴殿が……余の愛しき『お世話される者』なのだ。……アルベルト、次はあちらへ行け。……余が、貴殿の身体の疲れを……根こそぎ、吸い取ってやる」
ルナリスは、アルベルトをベッドへと促した。
いつもは自分がルナリスを寝かしつける場所。そこに、今度はアルベルトが横たわり、ルナリスがその上に跨るようにして、彼の背中へと手を置く。
「ひ……、あ…………ッ!!」
アルベルトの口から、初めて、抑えきれない吐息が漏れた。
ルナリスの指先から流れ込むのは、洗練された技術ではない。だが、それはあまりにも純粋で、あまりにも重い「独占欲」と「慈しみ」が混ざり合った、魔王にしか出せない原初の魔力。
脊髄を突き抜けるような、甘い衝撃。
アルベルトの鋼のような筋肉が、ルナリスの手のひらの下で、雪解けのように柔らかく解けていく。
「……どうだ。……余の手は、心地よいか?」
「…………。……反則です、ルナリス様。……このようなことをされては……私はもう、他の誰にも『お世話』をさせるわけにはいかなくなります」
「それで良いのだ。……貴殿をこれほどまでに甘やかせるのは、世界で余一人だけで良い」
ルナリスは、アルベルトの背中に顔を埋め、彼の温もりを全身で吸収するように抱きついた。
魔王城の平和を維持する完璧な執事。その背負っている重荷を、今この瞬間だけは、主人がすべて引き受ける。
数時間後。
逆メンテナンスを終えた寝室には、穏やかな静寂が漂っていた。
アルベルトの腕の中で、満足げに寝息を立てるルナリス。彼女の指先には、慣れない作業でできた小さな赤みが残っていたが、その顔は、どの戦利品を得た時よりも誇らしげであった。
アルベルトは、眠る主人の額をそっと指先でなぞった。
「……やれやれ。……お世話されるのも、これほどまでに『過酷』だとは。……ルナリス様。貴女様のこのお返し、私は一生をかけて、利息をつけてお返ししなければなりませんね」
翌朝。
玉座の間に現れたアルベルトの立ち姿は、以前にも増して神々しいまでの覇気を纏っていた。
それを見た最高幹部たちは、「執事さんがさらにパワーアップしてる……!?」と戦慄したが、その理由を知るのは、アルベルトの隣で誰よりも幸せそうに微笑む魔王ルナリス、ただ一人であった。
魔王城、逆お世話完了。
主従の絆は、もはや誰も入り込めないほどの絶対的な「共依存」の極致へと達していた。




