第26話:和平の架け橋と王の来訪
魔界の空を覆う紫の雲が、今日ばかりは穏やかな陽光を地表へと通していた。
魔王城「パンデモニウム」の巨大な黒鉄の門が、重々しく、しかし滑らかに開かれる。それはかつて、侵略者を拒むための絶望の門であったが、今、その門の先には一点の曇りもない白銀の石畳が、城の深部へと続く一本の道として整えられていた。
「……信じられん。これが、あの忌まわしき『万魔の城』だというのか?」
門をくぐった人間界の使節団の一人が、驚愕の声を漏らした。
彼らを出迎えたのは、血に飢えた魔獣でも、殺気立った魔族の兵士でもない。
道の両側に整然と並び、完璧な姿勢で直立不動の礼を取る、磨き上げられた鎧を纏った魔王軍の儀仗兵たち。そして何より、城内全体から漂うのは、清浄な空気と、心を落ち着かせるハーブの香りであった。
使節団の中央、一頭の白馬に乗った初老の男性が、ゆっくりと周囲を見渡していた。
人間界の王、エドワード・フォン・ローゼンブルク。
温厚な目元には、平和を願う者特有の深い慈愛が宿っている。彼は、今回の視察を誰よりも待ち望み、そして――誰よりも、ある一人の男の安否を案じていた。
「エドワード陛下。……ようこそ、魔王城へ。心より歓迎いたします」
城の正面玄関。そこには、魔王城の最高幹部たちが居並び、その中心で一人の男が深く頭を下げていた。
一点のシワもない燕尾服。白雪のように眩しいシャツ。そして、モノクルの奥で穏やかな、しかし絶対的な自負を込めて微笑む瞳。
「……アルベルト。……アルベルトなのか、本当に」
エドワード王は、馬を降りるのももどかしく、歩み寄った。
「はい、陛下。王命に従い、人間と魔族の架け橋として。……そして、この城の『管理責任者』として、貴方様をお迎えに上がりました」
アルベルトの手を取り、エドワード王はその顔をじっと見つめた。
「無事だったのだな。……いや、無事どころか。貴殿は、私が想像していたよりも遥かに大きな仕事を成し遂げてくれたようだ」
王の視線が、アルベルトの背後に控える最高幹部たちに向けられる。
かつて人間界を恐怖に陥れた「戦鬼」バルバラは、優雅な礼装に身を包み、非の打ち所のない淑女の礼を取っている。「混沌の知」メルヴィは、清潔な衣服で知的な微笑を浮かべ、闇の諜報員ゼノビアでさえも、アルベルトの影からではなく、一人の公式な出迎えとして堂々と立っていた。
そして、玉座の間からゆっくりと歩み寄る、魔王ルナリス。
「人間界の王よ。貴殿が余に授けてくれたこの執事は、今や余の城にとって、なくてはならぬ魂の片割れだ。……貴殿の英断に、魔王として最大限の敬意を表そう」
ルナリスの言葉に、エドワード王は深く頭を下げた。
「魔王陛下。……我が国が誇る最高の執事が、貴女様のお役に立てているようで、これほど喜ばしいことはございません。……アルベルトを信じて送り出した私の目に、狂いはなかった」
エドワード王は、感極まったようにアルベルトの肩を叩いた。
「アルベルトよ。人間界では今、貴殿が魔王を洗脳しただの、魔族に食われただの、勝手な噂が飛び交っているが……。この城の空気、そしてこの者たちの瞳を見れば、すべてが杞憂であることがわかる。……貴殿は、力ではなく『徳』をもって、この地を掃き清めたのだな」
「いえ、陛下。……私はただ、秩序を整えただけですから」
アルベルトの謙虚な、しかし確固たる答えに、エドワード王は声を立てて笑った。
「相変わらずだな、貴殿は。……城全体を平和に変えておきながら。……さあ、案内してくれ。貴殿が作り上げた、この新しき魔王城を」
アルベルトのエスコートにより、エドワード王の視察が始まった。
王が目にしたのは、アルベルトが導入した「魔導清掃システム」により、埃一つ存在しない回廊。
バルバラが管理する、軍事訓練場という名の「規律と美の修練場」。
メルヴィが管理する、世界中の知識が整然と並ぶ「大図書館」。
そして、ゼノビアが管理する、城下の民の平和を守るための「情報管理室」。
どこを歩いても、そこには「平和への意志」が、物理的な清潔さと秩序となって存在していた。エドワード王は一歩進むごとに、自らの決断が正しかったことを確信し、その目には喜びの涙が浮かんでいた。
「アルベルト。……貴殿は、本当に。……私の期待を、遥かに超えてくれた」
視察の締めくくり。城のテラスから、夕日に染まる魔界の大地を見渡しながら、王は静かに語った。
「……これで、ようやく胸を張って国民に伝えられる。……魔族は、共に語り合い、共に歩める隣人であると。……それは貴殿が、この城を『家』として整えてくれたからこそ言えることだ」
ルナリスがアルベルトの隣に立ち、エドワード王に向き直る。
「エドワード王よ。……視察の締めくくりに、我が城が誇る執事による、至高の晩餐を用意させた。……人間と魔族、その境界を溶かす味を、堪能してほしい」
平和の架け橋は、今、確かな橋となって両国を繋ごうとしていた。
だが、その晴れやかな空気の裏側で、アルベルトはエドワード王の「僅かな体調の変化」を見逃してはいなかった。
(……陛下。お顔色が僅かに優れませんね。……晩餐会の前に、少々『メンテナンス』が必要なようです)
アルベルトの「お世話」の手は、旧主である王にまで及ぼうとしていた。
視察の興奮冷めやらぬまま、魔王城の特別応接室へと案内されたエドワード王は、その調度の美しさに再び溜息を漏らしていた。かつての魔王城といえば、髑髏の杯や生々しい獣の皮が並ぶ戦慄の空間であったはずが、今の部屋を彩るのは、繊細な手仕事が施された人間界の工芸品と、魔界独自の結晶細工が調和した、静謐な「美」であった。
「アルベルト……改めて驚かされる。これほどまでに、魔族の美意識と我らの文化を融合させるとはな」
エドワード王はソファに身を沈めたが、その動作には僅かな重さがあった。
「陛下。お喋りの前に、失礼いたします」
アルベルトは無作法を承知で、王の傍らに跪き、その手首を指先で軽く押さえた。
「……な、何だ。アルベルト?」
「移動の疲れだけではありませんね。……陛下、公務のストレスにより、魔力回路が僅かに逆流しています。このまま晩餐会に臨まれては、至高の料理を十分に楽しむことができません。……少々、私の『給仕』をお受けください」
アルベルトは懐から、水晶の瓶を取り出した。中には、魔界の深層でしか採れない薬草をアルベルトが独自に精製した、瞬時に疲労を霧散させる香油が入っている。
彼は王の肩から首筋にかけて、執事としての「完璧な加減」で指先を滑らせた。
「……っ! これは、なんという……」
エドワード王は目を見開いた。指先から流れ込む温かな魔力が、滞っていた血流を瞬時に改善し、重く沈んでいた身体が羽のように軽くなっていく。
「……ふぅ。……驚いた。……我が国の宮廷医師たちですら、これほどの治療はできぬぞ」
「治療ではなく、執事としての『身だしなみ』の調整にございます。……さあ、陛下。万全の状態で、平和の宴へ参りましょう」
晩餐会の会場となる大食堂。
そこには、魔王ルナリスを中心に、最高幹部たちが正装で居並んでいた。
運ばれてきた料理は、アルベルトがこの日のために考案した「和睦のフルコース」であった。人間界の豊かな大地の恵みと、魔界の力強い幻想的な食材が、皿の上で奇跡のような調和を見せている。
「陛下。最初の一皿は、魔界の『常闇のキノコ』と、陛下のお庭で採れたハーブのコンソメ仕立てでございます。……異なる二つの世界が、一つの器の中でいかに高め合うか……その証左としてお受け取りください」
アルベルトの解説と共に、ルナリスとエドワード王が同時に匙を取る。
「……美味い。……魔族の食材に、これほどまでの深みがあるとは」
「うむ。……余も、人間界の香草がこれほど魔力を引き立てるとは知らなんだ。……アルベルト。貴殿は、皿の上にまで平和を描くのだな」
食事は、単なる饗応を超えた「対話」となった。
バルバラは、エドワード王の随行員たちに優雅なマナーで魔界の戦史を語り、メルヴィは人間界の学者と魔導理論の交換に花を咲かせる。ゼノビアは影の護衛として、両国の王を完璧な静寂の中に置いた。
エドワード王は、満足げにワイングラスを傾けながら、ルナリスを見つめた。
「魔王陛下。……私は、このアルベルトという執事を送り出した際、半ば彼を死なせる覚悟でおりました。……ですが、今、私は自分の愚かさを恥じております。……彼は死にに来たのではない。……死んでいたこの城に、生命と秩序を吹き込みに来たのだ」
ルナリスは、誇らしげに胸を張った。
「左様だ、エドワード王よ。……このアルベルトこそが、我が城の、そして余の誇りだ。……貴殿との平和を望む理由は、もはや条約という紙切れにあるのではない。……この男が作り上げた、この心地よい日常を守りたい。……ただそれだけだ」
その言葉は、両国の間にあった最後の疑念の壁を、音もなく崩し去った。
エドワード王は立ち上がり、アルベルトの前に立った。
「アルベルト。……貴殿に、新たな王命を下す。……これより、貴殿を『平和特使・終身執事』として任命する。……貴殿の主人は、魔王ルナリス陛下ただお一人。……だが、貴殿のその働きが、人間界の百万の民を救っていることを、決して忘れないでくれ」
「……畏まりました。……陛下。……私はどこにいても、完璧な仕事をするのみでございます」
アルベルトは深々と一礼した。
晩餐会が終わる頃。
テラスで夜風に当たるエドワード王を、ルナリスとアルベルトが見送った。
「……ルナリス。……これで、ようやく枕を高くして眠れる。……アルベルトを、よろしく頼むぞ」
「言われずとも。……あやつは、余が一生離さぬ」
馬車が闇に消えていくのを、三人は並んで見つめていた。
ルナリスは、アルベルトの腕を不意に、ぎゅっと抱き寄せた。
「……アルベルト。……視察は終わった。……王も、貴殿の功績を認めたな?」
「はい、ルナリス様。……これで、ようやく公務が一段落いたしました」
「ならば……。今夜は、余の部屋へ参れ。……公務ではない、私的なメンテナンスの時間だ。……バルバラたちに邪魔される前に、余だけをお世話せよ」
ルナリスの熱い視線に、アルベルトは苦笑しながらも、優雅に頭を下げた。
「御意のままに。……私の、ただ一人の主人よ」
平和は成った。
しかし、魔王城における「一人の執事を巡る争奪戦」は、和平の後、さらに熱を帯びて続いていくことになる。




