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第27話:平穏の代償と、女たちの静かなる火花

 人間界の王、エドワードによる視察を経て、魔王城「パンデモニウム」は未だかつてない静謐な「完成」の域に達していた。

 かつては暴力と混沌の象徴であった漆黒の居城は、今や一点の淀みもない魔力伝導率を誇る大理石の回廊と、最高級の香香が漂う王宮へと作り替えられている。だが、城内の「機能」が整えば整うほど、ある一つの問題が表面化していた。


 それは、魔王軍の全機能を最適化し、管理運営のすべてを掌握する執事アルベルトという「最高のリソース」の奪い合いである。


 ある日の朝、魔王ルナリスは玉座の間にて、傍らに控えるアルベルトの燕尾服の袖を、ぎゅっと掴んで離さなかった。

「……アルベルトよ。余は決めたぞ。これより、貴殿の行う全公務、全メンテナンスにおいて、余が常に同行し、その采配を直々に視察する。これは王命だ」


「……おや。ルナリス様、執務室での書類整理が、そんなに退屈でいらっしゃいますか?」

 アルベルトは、手にした銀のトレイを微塵も揺らすことなく、穏やかに微笑んだ。

「退屈などではない! 貴殿が……貴殿が、余のいないところでバルバラの肩を抱いたり、メルヴィの頭を撫でたり、ゼノビアと影の中で密会したりするのを……その、主として見過ごすわけにはいかぬのだ!」


 ルナリスの頬は、早朝の瑞々しい果実のように赤らんでいた。

 彼女は知っている。アルベルトが行う「お世話」とは、単なる物理的な行為ではない。それは相手の魔力波長を読み取り、精神の欠落を埋め、肉体の限界をリセットする、極めて密接で官能的な「調律」であることを。

 

「左様でございますか。……主人の深い慈しみ、執事としてこれに勝る光栄はございません。……では、参りましょうか。本日の最初の公務は、最高幹部たちを集めての『定例コンディション・チェック』でございます」


 アルベルトが指先を僅かに動かすと、城内の魔導回廊が呼応し、最高幹部たちが集うサロンへと扉が繋がった。

 ルナリスは、勝ち誇ったような顔でアルベルトの腕を抱き、彼を「自分の所有物」であることを誇示しながらサロンへと入室した。


 そこには、既に三人の最高幹部が待ち構えていた。

 将軍バルバラ、参謀メルヴィ、そして諜報員ゼノビア。

 彼女たちは、現れた二人を見るなり、三者三様の表情を浮かべた。


「……魔王様。本日は、アルベルトと『二人きり』で演習場の魔力炉の調整を行う予定だったはずですが」

 バルバラが、磨き上げられた銀の鎧を鳴らしながら、僅かに眉を寄せた。

「あはは。魔王様もご一緒なんて、賑やかでいいなぁ。……でも執事さん、僕の脳のバックアップ作業、隣に誰かがいると計算式が乱れちゃうかもしれないよぉ?」

 メルヴィが、眠たげな瞳の中に鋭い独占欲を宿してアルベルトを視る。

「……あたいは、影の中にいるから。……でも、アンタがそっち(ルナリス)ばかり見てるのは、正直、面白くないねぇ」

 ゼノビアの影が、不穏に揺らめく。


「ええい、だまれ家臣ども! アルベルトの時間は余のものだ! 余が許可した範囲内で、貴殿たちのメンテナンスを許してやるのだ。……アルベルト、始めよ!」


 ルナリスがアルベルトを椅子に座らせ、自分はその隣、いや、ほとんど膝の上に乗らんばかりの距離で陣取った。

 アルベルトは困ったような、しかし完璧に計算通りの冷徹な微笑を浮かべ、まずはバルバラへと向き直った。


「バルバラ様。……演習のしすぎですね。右腕の魔力伝導が、コンマ数秒遅れています。……主人の盾として、その『僅かな遅れ』は致命的です。……失礼」

 アルベルトが立ち上がり、バルバラの肩へと手を伸ばす。

 瞬間に、ルナリスが「むぅ」と声を上げた。


「……アルベルト。あまり、ベタベタ触るなよ。……必要最低限の接触で済ませ」

「畏まりました、ルナリス様。……最小限の接触で、最大限の『矯正』を施しましょう」


 アルベルトの指先が、バルバラの肩当ての隙間から、その熱い肌へと滑り込んだ。

 指先から放たれるのは、暴力的なまでに純度の高い、魔力の律動。

「……っ、ふ、あ…………ッ!!」

 バルバラの身体が、電流を流されたように跳ねる。

 ルナリスが横で監視している。その視線があるからこそ、アルベルトの指先がもたらす「調律」の快感は、禁断の蜜のような背徳感を伴ってバルバラを犯していく。


「……ここですね。筋肉の芯に残った、闘争の残滓が、流れを塞いでいます」

 アルベルトの指が深く沈み、バルバラの神経を直接愛撫する。

「あ……ああ、アルベル……ト……。……魔王様が、見て、いるのに……こんな……っ」


 ルナリスは、赤くなって蕩けるような声を漏らすバルバラを、苦々しく、しかしどこか優越感を抱きながら眺めていた。

(……どれほどあやつが執事に弄ばれようと、最後には、この男は余の元へ戻ってくるのだからな)


 だが、その余裕も長くは続かなかった。

 アルベルトのケアが、次は参謀メルヴィ、そして影のゼノビアへと移るにつれ、サロン内の空気は、執事を巡る「静かなる火花」で、爆発寸前の熱を帯びていく。


 平穏な魔王城。

 だがその内側では、一人の執事の「指先」を巡り、最強の女たちが、主君である魔王をも巻き込んで、底なしの依存の深淵へと沈んでいこうとしていたのである。


 サロン内に満ちる芳醇な茶の香りは、しかしそこに渦巻く最高幹部たちの独占欲を鎮める役には立っていなかった。将軍バルバラの「調律」を終えたアルベルトの指先には、まだ微かに彼女の魔力の熱が残っている。それを見つめる魔王ルナリスの視線は、鋭い針のようにアルベルトの横顔を刺していた。


「……バルバラ。貴殿の顔、いささか弛緩しすぎではないか? 調律とは、あくまで次なる戦いへの備え。そのような、毒気を抜かれたような顔で余の隣に立たれては困るぞ」

「……っ、も、申し訳ございません。ですが魔王様……こればかりは、抗い難いのです。アルベルトの指先が、その、俺のコアを直接……」

 バルバラは頬を染めたまま、磨き上げられた白銀の小手で自身の顔を隠した。ルナリスは「ふん」と鼻を鳴らし、さらにアルベルトの腕を自分の胸元へ引き寄せる。


「次は僕の番だねぇ。……魔王様、そんなに執事さんを離さないんじゃ、僕の脳の『最適化』ができないよぉ」

 参謀メルヴィが、机の上に広げた膨大な魔導数式の羅列を指先で弄びながら、眠たげな、しかし獲物を狙う蛇のような瞳を向けた。


「メルヴィ様。昨晩の経済予測、三桁の誤差が出ていましたね。……脳内の情報の『目詰まり』を放置するのは、執事として看過できません」

 アルベルトは、ルナリスの拘束を優雅に解き、メルヴィの背後へと立った。

「あはは。……待ってたよ、執事さん。さあ、僕の頭の中を、君の色で書き換えてよぉ……」


 ルナリスの燃えるような監視の目が注がれる中、アルベルトはメルヴィの両のこめかみに指先を添えた。

「……失礼。……走査スキャンを開始します」

 アルベルトの指先から、冷徹で緻密な魔力がメルヴィの脳内へと流し込まれる。それは情報の濁流を掻き分け、不要な思考の残滓を摘み取り、複雑な演算回路を最短距離で繋ぎ直す「知の外科手術」である。


「あ……っ、ふ……。……すごい。……情報の……海が……凪いでいく……」

 メルヴィの瞳の焦点が、甘美な快楽に合わなくなる。

 ルナリスは、その光景を食い入るように見つめていた。自分の最高機密であるはずの「参謀の脳」が、一人の執事によって文字通り「支配」され、快感と共に再構築されていく。


「……アルベルト。……それ以上、あやつを心地よくさせる必要はないのではないか? ……あやつの知能が戻れば、それで十分だろう」

「ルナリス様。精神の安定は、知能指数の維持に不可欠です。……さて、メルヴィ様。最後の一仕上げに、貴方の『怠惰な脳』に、規律の刺激を与えておきましょう」


 アルベルトが指先を僅かに弾くと、メルヴィの背筋に、冷たい水が奔るような衝撃が突き抜けた。

「あ、あああああッ!? これ……新しい! 脳が……洗われるみたいだぁ……!!」

 メルヴィが椅子から崩れ落ち、アルベルトの燕尾服の裾に顔を埋める。それを見たルナリスが、ついに立ち上がった。


「ええい! これ以上は許さぬ! メルヴィ、そこをどけ! 次はゼノビア……と言いたいところだが、後回しだ! アルベルト、今すぐ余を……余をメンテナンスせよ!」


 影の中から様子を伺っていたゼノビアが、恨めしそうに姿を現した。

「……へぇ。あたいは、またお預けってわけかい。……ひどいねぇ、アンタも……魔王様も」

「ゼノビア様。貴女には、影の中でも摂取できる『至高の安眠薬膳』を既に用意してあります。……今は、主人の『わがまま』を優先させていただけますか?」

 アルベルトの冷徹な、しかしすべてを見通したような微笑に、ゼノビアは「……ち。……アンタにそう言われちゃ、影に引っ込むしかないねぇ」と、赤面しながら消えていった。


 サロンに残されたのは、荒い息をつくバルバラとメルヴィ、そして、アルベルトに抱きつくルナリス。

「……アルベルトよ。……貴殿は、余の配下を磨き、依存させ、余の城を完璧にした。……だが、そのせいで余は、貴殿を奪われる恐怖に、毎日心が焼かれているのだぞ」


 ルナリスは、アルベルトの胸元で、小さな角を震わせた。

 アルベルトは、そんな主人の肩を優しく、しかし有無を言わせぬ独占欲を込めて引き寄せた。

「ルナリス様。……何度も申し上げているはずです。……私のすべての奉仕は、貴女様という『太陽』を輝かせるための背景に過ぎません。……貴女様が嫉妬に狂うその姿さえも、私にとっては、整えるべき愛しき『乱れ』でございますよ」


「……あ、アルベルト……」

 ルナリスの魔力が、安らぎと期待に蕩けていく。

 アルベルトは、彼女を抱き上げ、静かにサロンを後にした。


「皆様。……主人の『緊急メンテナンス』につき、本日の全公務はこれにて終了させていただきます。……バルバラ様、メルヴィ様、ゼノビア様。……貴女たちは、私が整えたその完璧なコンディションで、明日の朝まで、主人のために最高の職務を全うすること。……それが、私への『支払い』です」


 最高幹部たちは、その言葉に、抗うことのできない「服従」の悦びを感じながら、去りゆく二人の背中を見送るしかなかった。


 城内は、かつてないほどの静寂と秩序に包まれていた。

 だが、その裏側で、アルベルトという一人の執事によって作り上げられた「依存の鎖」は、魔王城のすべてを、逃げ場のない甘美な支配へと引きずり込んでいたのである。


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