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第21話:鉄の女の断罪

 魔王城「パンデモニウム」の朝。それは、一人の「規律の権化」の帰還によって、かつてない氷点下の緊張感に包まれていた。


 最高幹部筆頭、カサンドラ。

 先代魔王の時代から城の屋台骨を支え、現魔王ルナリスの教育係も務めた彼女は、魔王軍における「法」そのものであった。長年の遠征から帰還した彼女が、自らの城で目にしたのは、見るに堪えない「堕落」と「退廃」の極致――と、彼女の目には映る光景であった。


 中庭では、将軍バルバラが磨き上げられた鎧を誇示しながら優雅に紅茶を啜り、参謀メルヴィは清潔な衣服に身を包んで執事の膝元で微睡んでいる。さらに、闇に潜むはずの諜報員ゼノビアまでもが、執事の背後の影に安らぎを見出していた。


「……看過できん。断じて、許されることではない」

 カサンドラは、一点の曇りもない漆黒の軍服の裾を翻し、魔王執務室へと続く廊下を突き進んだ。彼女が歩くたびに、周囲の魔力濃度が物理的な圧力となって壁を軋ませ、居合わせた兵士たちは恐怖で床に伏した。


 重厚な黒檀の扉が、音もなく左右に開かれる。

「ルナリス様。……これはいかなる事態ですか。この城は、いつから人間の『託児所』に成り下がったのですか」

 カサンドラの銀の瞳が、ルナリスの傍らで完璧な所作をもって香茶を注ぐ、アルベルトを射抜いた。


「カサンドラか。……戻った早々、騒々しいな。まずはアルベルトの淹れた茶を飲め。遠征の疲れが、嘘のように消えるぞ」

 ルナリスは穏やかに微笑むが、その瞳には「正妻」としての余裕と、教育係への微かな反抗心が宿っていた。


「お断りいたします。……魔王様、貴女様はこの人間に『毒』を盛られている。……肉体の損傷を癒やし、胃袋を掴み、あろうことか『精神的な依存』という名の鎖で、最高幹部たちを骨抜きにしている。……これは奉仕ではありません。……極めて巧妙な、人間界による魔王城の『解体作業』です!」


 カサンドラの糾弾。だが、アルベルトは眉一つ動かさない。

 彼はルナリスのカップを静かに置くと、カサンドラに向き直り、深々と、そしてどこか挑発的な優雅さを伴って一礼した。


「お初にお目にかかります、カサンドラ閣下。……お噂はかねがね。……ですが、閣下。……そのように声を荒らげるのは、心臓への負担を増大させるだけでなく、貴女が大切にされているその軍服の、胸元の第一ボタンに過度な負荷をかけておりますよ」

「……何だと?」


「見てください。……貴女のその完璧な規律。……その裏側で、長年の激務によって『ほつれ』が生じている。……貴女が維持している城の結界、その出力が僅かに不安定なのは、閣下、貴女自身の『メンテナンス不足』が原因です。……不潔ですね。己を律せぬ者が規律を語るなど」


 アルベルトの言葉は、鋭いメスのようにカサンドラの「完璧主義」を切り裂いた。

 カサンドラは反射的に腰の剣に手をかけたが、アルベルトが放つのは殺気ではなく、彼女のすべてを透かし見るような、冷徹で慈悲深い「鑑定」の眼差しであった。


「……不遜な。人間に何がわかる。……私はこの城の法だ。法に休息など不要。……魔王様、今すぐこの者に『執事適正試験』を課す許可を。……もし彼が、私の提示する基準を満たせなければ、その場で『排除』させていただきます」


 ルナリスは、面白そうに瞳を輝かせた。

「……よかろう。アルベルト、貴殿に拒否権はない。……カサンドラを、余の厳しい教育係を、貴殿の手で納得させてみせよ」


「――承知いたしました。……閣下。貴女の提示するいかなる無理難題も、執事の嗜みとして、完璧にこなしてご覧に入れましょう。……ですが、もし私がやり遂げた暁には……」

 アルベルトの瞳が、モノクル越しに妖しく光る。

「……貴女のその、鉄のように固く閉ざされた『規律』。……私が責任を持って、跡形もなく洗浄クリーニングさせていただきますが、よろしいですね?」


「……フン。……できるものなら、やってみるがいい。……明日から、貴殿に地獄という名の『整理整頓』を味わわせてやろう」


 翌朝。カサンドラによる「執事断罪試験」が幕を開けた。

 彼女がアルベルトに課したのは、到底一人の人間がこなせる量ではない、理不尽極まりないタスクの山だった。


「第一。三千枚に及ぶ先代からの古文書の、全言語翻訳。第二。城壁全体の魔力洗浄と再コーティング。……そして第三。この城の三千年の歴史の中で一度も解明されたことのない、大書庫の『呪いの整理』。……これらを日没までに終わらせなさい。……一秒でも遅れれば、貴殿の身柄は私が預かる」


 カサンドラは、冷酷な笑みを浮かべて命じた。

 彼女の目論見は明白だった。物理的に不可能な物量を押し付け、執事の「完璧」というメッキを剥がし、失態を理由に城から追放すること。

 しかし、アルベルトの答えは、彼女の想像を絶するものであった。


「……左様でございますか。……では、午後のティータイムには時間が余りそうですね。……閣下、その間に貴女のその、三日間一睡もせず張り詰めさせている『心魂しんこん』を整えるための香草を選んでおきましょう」


「な……っ!? 貴様、なぜ私が三日眠っていないことを……!」

「執事の目は節穴ではありません。……歩き方の僅かな重心のブレ、そしてその美しい銀髪の毛先が、僅かに乾燥している。……それは、深刻な魔力枯渇と休息不足の証拠です。……閣下、貴女は『城を支える装置』になりすぎた。……その磨耗した部品を、私に預ける覚悟を今のうちにしておくことです」


 アルベルトは、カサンドラの驚愕を置き去りにし、猛然と作業を開始した。

 古文書を流れるように読み解き、城壁の汚れを洗浄魔法の奔流で一瞬にして白銀へと変え、大書庫の呪いすらも「整理の邪魔です」と一蹴して霧散させていく。


 カサンドラは、その光景を呆然と見守るしかなかった。

 彼女が「不可能な試練」として課した課題が、アルベルトという男の手にかかれば、ただの「日常的な家政」へと還元されていく。

 そして、作業の合間に、アルベルトは彼女のデスクに「毒見済み」の、しかし彼女がかつて一度だけ人間界で興味を持った「流行の焼き菓子」を、さりげなく置いていった。


「……貴様、これは……」

「お喋りの暇があるなら、糖分を摂取なさい。……脳の回転が鈍れば、私を監視する仕事も疎かになりますよ」


 夕暮れ。

 すべての課題を完璧に、かつ優雅に終わらせたアルベルトが、カサンドラの前に現れた。

 その燕尾服には、三千枚の古文書の埃も、城壁の泥も、呪いのすすも、ただの一片すら付着していなかった。


「……約束の時間です、閣下。……お疲れのご様子ですね。……さあ、次は私の番です。……貴女のその、錆びついた『規律』という名の鎧。……今すぐ、脱がせて差し上げましょう」


 カサンドラは、生まれて初めて「敗北」の予感に震えた。

 目の前の男は、ただの人間ではない。

 自分のすべてを暴き、支配し、そして……抗い難いほどの「安らぎ」を無理やり突きつけてくる、究極の劇薬。


「……く。……まだだ。……まだ、認めんぞ。……人間……!」

 カサンドラの頬が、怒りと、そして無意識の動揺で、僅かに赤く染まった。


 魔王城最大の「壁」が、ついに執事のメンテナンスルームへと、逃げ場を失いながら誘い込まれていく。


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