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第20話:影の住人の安息

 魔王軍最高幹部の一人、諜報員ゼノビアが、自身の「罠の迷宮」から姿を消して数日が経過した。

 城内では「ついにあの執事が諜報員に暗殺されたか」という根も葉もない噂が飛び交っていたが、その真相は、上層の者たちですら想像し得ないほどに「甘やか」で「退廃的」なものであった。


 アルベルトが管理する、音一つ届かぬ地下の秘密茶室。

 そこでは、数百年間にわたって仮面の下に素顔を隠し、毒と裏切りを警戒して生きてきたゼノビアが、無防備な寝巻き姿で、アルベルトの手による「お世話」を全身で受け入れていた。


「……アンタ。……このお茶、本当にあたいのためだけに淹れたのかい?」

 ゼノビアは、アルベルトが目の前で茶葉を量り、抽出温度をミリ単位で調整した『宵闇のしずく茶』を啜りながら、琥珀色の瞳を細めた。

 かつては他人の淹れた茶など、毒を疑って一口も飲まなかった彼女だ。だが、アルベルトが自分のために、文字通り「命を賭けて」給仕をするその狂気的な誠実さに触れ、彼女の防壁は跡形もなく瓦解していた。


「左様でございます。ゼノビア様の繊細な味覚と、過敏になった神経を鎮めるには、この配合しかありません。……さあ、冷めないうちに。それと、その髪の毛先。……まだ僅かに魔力が乱れていますね。整えさせていただきます」


 アルベルトは、ゼノビアの背後に回ると、彼女のさらりと流れる漆黒の髪に、銀の櫛を通した。

「ひ……っ! ……また、触るのかい。……あたいに触れて、生きて帰れた奴なんていないんだよ……?」

「生きて帰る必要などありません。私はここを、貴女の『終の隠れ家』として整えると決めたのですから」

 アルベルトの指先が、首筋の敏感な箇所を掠める。

 ゼノビアは抵抗するどころか、その指先の熱を求めて、無意識に自分から首を傾けた。

「……あはは。……あたい、本当に壊されちゃったみたいだね。……アンタがいないと、もう、眠ることもできないなんてさぁ」


 しかし、この「秘密の密会」は、城の真の主人の耳に届かぬはずがなかった。


 バァァァンッ!!

 茶室の扉が、凄まじい魔力の奔流によって吹き飛ばされた。

「アルベルドォォォォッ!! 貴殿、このような地下で、余の最高幹部と何を、何をしているのだ!!」


 現れたのは、憤怒のあまり角から火花を散らしている魔王ルナリス。その後ろには、嫉妬で顔を歪ませたバルバラと、面白くなさそうに計算機を叩くメルヴィも控えている。


「あ、魔王様。……お早いお出ましですね」

 アルベルトは動じず、ルナリスの分まで用意されていたカップを静かに差し出した。

「早いも遅いもあるか! 貴殿、三日だ! 三日間も、余に黙ってこの女と地下に籠もりきりになるとは! しかも……何だ、そのゼノビアの格好は! 面布メンプはどうした! あやつの素顔は、余だけの特権ではなかったのか!!」


「……あはは、魔王様。……うるさいよ。……アルベルトは今、あたいの『影』なんだ。……アンタの執事かもしれないけど、あたいにとっては、唯一の安息なんだよ」

 ゼノビアが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、アルベルトの燕尾服の裾をギュッと握った。

「なっ……この泥棒猫め! あたいのアルベルトに馴れ馴れしく触るな!」

 バルバラが剣の柄に手をかけ、一歩前に出る。

「そうだよぉ。執事さんは、僕の計算補助をしなきゃいけないんだから。……ゼノビア、独占禁止法って知ってるかなぁ?」

 メルヴィの周囲に、攻撃魔法の陣が展開される。


「皆様、落ち着いてください。……主人の前で醜い争いをするのは、城の品格を損ないます」

 アルベルトの声が響いた瞬間、全員がピタリと動きを止めた。

 彼は、ルナリスの前に歩み寄ると、彼女の震える手を取り、その手の甲に跪いて接吻した。

「ルナリス様。私が誰をお世話しようとも、私の魂の帰属先は、太陽である貴女様お一人。……ですが、この城の『闇』が健やかでなければ、太陽もまた輝きを失います。……ゼノビア様を整えることは、即ち、貴女様の統治を完璧にすることに他なりません」


「……う、うむ……。貴殿がそこまで言うのなら……」

 ルナリスは顔を真っ赤にし、あっさりと毒気を抜かれた。

「……だが、条件がある。……これからは、余の目の届く場所でやれ。……ゼノビアも、地下に引きこもるのは禁止だ。……バルバラ、メルヴィ。今夜は全員、大広間に集まれ。……アルベルトに、全員まとめて『お世話』をさせる!」


 ルナリスの宣言により、事態は奇妙な方向へと転がった。

 その夜、魔王城の大広間では、最高幹部たちが勢揃いし、アルベルト一人がその中心で全員に完璧な給仕とメンテナンスを施すという、背徳的かつ豪華な夜会が繰り広げられた。


 ルナリスの肩を揉みながら、バルバラにケーキを食べさせ、メルヴィの計算に助言を与え、足元の影に潜むゼノビアに紅茶を運ぶ。

 一人の執事が、魔王軍の全機能をその掌の上で完璧にコントロールしている光景。

 それは魔王城の「完成形」に見えた。


 だが。

 その様子を、城の最上階、時計塔の鐘楼から冷徹な眼差しで見下ろす、最後の最高幹部がいた。

 最高幹部筆頭、カサンドラ。

「……あまりに、見苦しい。……魔王城の誇りも、規律も、一人の人間の手によって泥に塗れたか。……ルナリス様、貴女様を……そしてこの城を、私が救わねばならんようですね」


 カサンドラは、手に持っていた軍用報告書を握りつぶした。

 彼女の全身から放たれるのは、これまでの誰よりも鋭く、強固な「鉄の規律」。

 執事アルベルトの前に、最大にして最後の、そして「最も掃除しがいのある」壁が立ち塞がろうとしていた。

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