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【幕間】執事争奪戦と魔王城の平穏なる混沌

 魔王城「パンデモニウム」の中庭に設けられた特設テラス。かつては魔獣が吠え、処刑の露が滴ることもあったその場所は、今や一点の曇りもない白磁のテーブルと、人間界の王宮ですらお目にかかれない至高のスイーツが並ぶ「安らぎの聖域」へと作り替えられていた。


 午後のティータイム。それは、魔王軍最高幹部たちにとって、今や戦場での勝利よりも重要な、一日のうちで最も「戦い」が激化する時間であった。


「……アルベルト。今日のスコーン、少し焼きが甘くないか? 余の好みは、もう少し外側がサクッとしているはずだが」

 中央の席に座る魔王ルナリスが、優雅に、しかしどこか刺々しい視線をアルベルトへ向けた。

「申し訳ございません、ルナリス様。貴女様の体調と今朝の湿度を考慮し、水分量を僅かに増やさせていただきました。一口召し上がれば、その意図が伝わるかと存じます」

 アルベルトは完璧な角度で一礼し、彼女の皿に特製のクロテッドクリームを添える。ルナリスは「ふん、理屈っぽい男だ」と毒づきながらも、その頬を僅かに緩ませて口に運んだ。


「……あはは。魔王様、そんなに執事さんを困らせちゃダメだよぉ。執事さんは昨晩、僕の資料整理で一晩中、僕の隣にいてくれたんだから。ねぇ、アルベルトさん?」

 参謀メルヴィが、清潔に整えられた寝癖一つない髪を揺らし、アルベルトの燕尾服の裾を指先でチョイチョイと引いた。

「メルヴィ様。資料整理の際に寝落ちされ、私の膝を枕にされたのはどなたでしたか。……本日はその分、しっかりと脳を動かしていただきますよ」

「えぇ……。膝枕の代償が計算だなんて、執事さんは相変わらず厳しいなぁ……」


 メルヴィの「添い寝報告」を聞いた瞬間、隣に座っていた将軍バルバラの手の中で、銀のフォークが不気味な音を立てて歪んだ。

「……貴様、メルヴィ。今、なんと言った? 一晩中だと? 俺ですら、アルベルトに肌のメンテナンスを受けている間は、魔王様への不敬を考えて三時間が限界だというのに……!」

 磨き上げられた白銀の鎧を纏うバルバラの全身から、凄まじい威圧感が漏れ出す。

「バルバラ様。フォークを武器にするのはおやめください。……その、最近一段と滑らかになった肌に、不必要な力みを加えるのはマナー違反です。……さあ、深呼吸を。貴女には、特別にプロテイン入りの高栄養ガトーショコラを用意してあります」


「……っ! お、俺のために、特別だと……? ……ふん。そこまで言うなら、食べてやらんでもない」

 アルベルトの指先が、バルバラの口元にケーキを運ぶ。バルバラは顔を真っ赤にしながら、かつての戦鬼とは思えないほど淑やかに、それを食した。


 その光景を、テラスの柱の影――もとい、アルベルトの背後の「影」の中から、琥珀色の瞳がじっと見つめていた。

「……賑やかなこったね。あたいからすりゃ、全員、執事の毒に当てられて脳みそが沸いてるとしか思えないよ」

 諜報員ゼノビアが、影の中からぬらりと姿を現した。彼女はアルベルトから与えられた「秘密の茶室」で英気を養い、今や不眠症が嘘のように、その瞳には鋭い活力が戻っている。


「ゼノビア様。影の中から聞き耳を立てるのは、給仕の邪魔です。……ほら、貴女の分はあちらの暗がりに、毒味済みの温かな『隠れ里の茶』を置いてありますよ」

「……アンタ、本当に……。あたいがどこにいるか、全部お見通しってわけかい」

 ゼノビアは不敵に笑うが、アルベルトが用意した茶器を手に取るその手つきは、全幅の信頼を置く者のそれであった。


 魔王、将軍、参謀、そして隠密。

 魔王軍の頂点に立つ女性たちが、一人の人間の執事を取り囲み、その寵愛メンテナンスを巡って無意識に火花を散らしている。

 アルベルトは、その中心で淡々と給仕を続けながら、城内の空気が「清潔に保たれている」ことに、密かな満足感を抱いていた。


 だが、この平穏な混沌は、ある一人の人物の登場によって、一瞬で凍りつくこととなる。


「――あまりにも、見苦しい。これが魔王軍を統べる者たちの姿か」


 冷徹な声が中庭に響き渡った。

 全員が視線を向けた先。そこには、魔王城の最高幹部筆頭であり、魔王ルナリスの教育係も務めた重鎮、カサンドラが立っていた。

 彼女の全身から放たれる「規律」の魔力は、アルベルトが作り上げた安らぎの空気を、物理的に切り裂くほどの鋭さを持っていた。


「……カサンドラ。貴殿、いつ戻ったのだ」

 ルナリスが姿勢を正し、魔王の顔に戻る。

「今しがた戻りました。……魔王様。貴女様が人間に心を開くことは否定しませんが……。この者は、あまねく最高幹部をたらかし、軍の規律を腐らせている。……もはや、看過できません」


 カサンドラの冷たい視線が、アルベルトを射抜いた。

「人間よ。貴殿のその『奉仕』という名の侵略。……私が、ここで断たせてもらう」


 魔王城最大の「壁」が、ついに動き出した。

 アルベルトは、その殺気を受け流すように優雅に一礼する。

「……お初にお目にかかります、筆頭閣下。……お顔色が優れませんね。……まずは、そのひどく凝り固まった『思考』を、私が掃除して差し上げましょうか?」


 執事の不敵な微笑が、カサンドラの逆鱗に触れた瞬間であった。


 最高幹部筆頭、カサンドラの発した凍てつくような言葉は、中庭に流れていた甘やかなティータイムの空気を一瞬で霧散させた。

 魔王ルナリスの教育係でもあった彼女が放つプレッシャーは、他の最高幹部たちとは一線を画している。それは純粋な殺意というよりも、法そのものが形を成して迫りくるような、逃げ場のない圧迫感であった。


「……カサンドラ。待て、アルベルトは不届き者ではない。彼は余の、そしてこの城の恩人なのだぞ」

 ルナリスが制止の声を上げるが、カサンドラは一歩も引かなかった。彼女の冷徹な銀の瞳は、一点の曇りもなくアルベルトという「異物」を捉え続けている。


「恩人、でございますか。魔王様、目を覚ましてください。……見て御覧なさい、そこのバルバラを。武人の誇りを忘れ、あろうことか敵種族の男から菓子を口に運ばれることに、頬を赤らめている。……メルヴィも、ゼノビアもそうだ。影から、あるいは依存によって、この人間に魂の首輪を預けてしまっている。……これが侵略でなくて何だというのです」


「……っ、カサンドラ。言い方が過ぎるぞ。俺は、俺はただ、魔王様に相応しい騎士になるために、自分を磨いているだけだ!」

 バルバラが反論するが、その声には僅かな動揺が混じる。カサンドラの指摘は、バルバラ自身が心の奥底で感じていた「アルベルトなしではいられない自分」への戸惑いを、正確に突き刺していたからだ。


「あはは……。カサンドラ様、そんなに怒らなくてもいいのにぃ。執事さんがいてくれたほうが、計算の効率も上がるし、城も綺麗になるし。……ほら、君だって、そんなに怖い顔をしてたら、せっかくの綺麗な顔にシワが増えちゃうよぉ?」

 メルヴィが軽口を叩くが、カサンドラの放つ空間圧力が僅かに強まっただけで、その笑顔も強張った。


 カサンドラは、ゆっくりとアルベルトへと歩み寄った。

「人間。貴殿の術策は見事だ。……胃袋を掴み、肉体を癒やし、情報を整理し、孤独を埋める。……だが、その『完璧』さこそが、貴殿が人間界から送り込まれた最高度のスパイであることの証左。……貴殿はこの城の『牙』を、優しさという名の毒で抜こうとしている。……違うか?」


 アルベルトは、カサンドラの至近距離での糾弾を、柳に風と受け流していた。

 彼は懐から、一点の汚れもない白いハンカチを取り出すと、カサンドラの頬の近く、空中に漂っていた微かな「埃」を、指先で優雅に拭い去った。


「閣下。……お喋りの途中に失礼。……貴女のその完璧な軍服、左襟の裏側に、僅か一ミリほどの糸のほつれがございます。……先日の遠征で、無理な魔力抽出を行われましたね? ……その際の反動が、貴女の心臓の鼓動を、今、不規則に乱しています」


「……なっ!?」

 カサンドラは、生まれて初めて「自分の内側」を他者に、それも人間に一瞬で見抜かれた衝撃に、言葉を失った。

「貴女は規律を重んじる。それは素晴らしい。……ですが、貴女自身が『規律』という名の呪いに縛られ、内側から崩壊しつつあることに気づいていない。……筆頭が倒れては、それこそ魔王城の終わりです。……いかがですか、閣下。……一度、私に貴女のその『重荷』を預けてみる気はありませんか?」


「……不遜なッ!!」

 カサンドラの魔力が爆発した。

 しかし、その魔力はアルベルトに届く直前、三人の女性たちによって遮られた。

 バルバラの剣、メルヴィの障壁、そしてゼノビアの影の牙。


「……退け、貴様ら! 魔王様を守るため、この人間を排除するのが私の義務だ!」

「断る。……カサンドラ、俺はこいつを、俺の『管理人』として認めているんだ。……手出しはさせん」

「あはは、僕もだよぉ。……執事さんがいなくなったら、僕、またゴミの山に戻らなきゃいけないからねぇ」

「……あたいも同感だ。アンタに消される前に、あたいがアンタを影に沈めてやるよ」


 最高幹部たちの内乱寸前の睨み合い。

 その中心で、ルナリスが椅子を激しく引き、立ち上がった。

「やめぬか!! 余の目の前で、仲間割れなど断じて許さぬ!」


 ルナリスの圧倒的な魔圧が、場を鎮める。

「……カサンドラ。貴殿の懸念は理解した。……だが、アルベルトの処遇は余が決める。……アルベルトよ。……貴殿に、最後の試練を与える」

 ルナリスは、真っ直ぐにアルベルトを見据えた。

「カサンドラを……この頑固で、誰よりも不器用な余の教育係を、貴殿の手で『お世話』してみせよ。……もし彼女が貴殿を認めれば、貴殿の魔王城における地位を、余の『専属』として永遠に固定してやろう」


「なっ……魔王様!? そのような……!」

 カサンドラが驚愕の声を上げるが、アルベルトは既に、不敵な微笑を浮かべて跪いていた。


「……承知いたしました、ルナリス様。……筆頭閣下のその頑なな『規律』、私が責任を持って、美しく洗い流して差し上げましょう。……覚悟してください、カサンドラ様。……私のサービスは、一度受ければ二度と抜け出せぬ『蜜の牢獄』でございますよ」


 カサンドラの顔が、怒りと――そして無意識の動揺で、僅かに赤く染まった。


 魔王軍最高幹部、最後にして最大の壁。

 「規律の権化」カサンドラと、「完璧なる執事」アルベルト。

 魔王城の存亡を賭けた(?)最後のお世話バトルが、幕を開けようとしていた。


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