第19話:影の住人の素顔
意識が浮上する感覚は、いつになく穏やかだった。
魔王軍最高幹部の一人、諜報員ゼノビアにとって、目覚めとは常に「死」との隣り合わせである。微かな風の揺らぎ、遠くの足音、空気の匂いの変化……それらすべてを覚醒の瞬間に感知し、即座に隠し持った短剣で喉元を突く。それが、彼女が数百年にわたり自らに課してきた、生存のための「呪い」であった。
だが、今。彼女の頬に触れているのは、冷たい石床でも、罠を仕掛けた無骨な寝台でもない。雲のように柔らかく、微かに陽だまりの香りがする最高級のシルクであった。
「……っ!?」
ゼノビアは反射的に飛び起きようとした。だが、身体が驚くほどに軽く、それでいて深い弛緩状態にあることに気づき、動きが止まる。身体の芯に残っていたはずの疲労という名の鉛が、一滴残らず洗い流されたかのような、恐ろしいほどの清涼感。
そこは、彼女がいた地下の暗部ではなかった。
窓一つない密室でありながら、柔らかな魔法灯の光が隅々まで行き届き、刺すような不快な影が一つも存在しない、完璧に「管理」された茶室であった。
「……おはようございます。ゼノビア様。予定より三時間ほど早いお目覚めですね。……まだ、身体の節々に『過緊張の残り香』が漂っていますよ。そのまま、安静になさってください」
部屋の隅。一点の曇りもない銀のポットを手に、アルベルトが静かに立っていた。
ゼノビアは咄嗟に顔に手をやった。だが、そこにあるはずの、彼女の魂を隠すための面布はない。
「あ……あたいの、顔……っ! アンタ、見たのかい……!? あたいの素顔を見た奴は、魔王様以外、生かしておかないって決めてるんだよぉ!」
ゼノビアは枕元に隠しているはずの短剣を探そうとしたが、アルベルトは優雅な所作で首を横に振った。
「執事が主人の健康状態を確認する際、診断の邪魔になる遮蔽物を取り除くのは当然の処置です。……貴女のその美しい素顔、不眠による隈と、手入れを怠った肌荒れで台無しですよ。……不潔な隠し武器は、すべて私が没収し、丁寧に磨き直させていただきました」
ゼノビアはシーツを胸元まで引き上げ、琥珀色の瞳を鋭く尖らせた。
諜報員にとって、素顔を晒すことは社会的、精神的な死と同義だ。だが、目の前の男からは、殺気も、蔑みも、あるいは下劣な欲望すらも感じられない。あるのはただ、磨き残しのある銀器を眺めるような、厳格で、狂気じみた「清掃への義務感」だけであった。
「……殺してやる。絶対、殺してやる。アンタ、あたいをこんな無防備にして、一体何をさせるつもりだい……!」
「お喋りの前に、こちらを。貴女の故郷、東方の隠れ里に伝わるレシピを再現した『滋養の粥』でございます」
アルベルトは、彼女の殺気を完全に無視し、湯気の立つ白磁の器を差し出した。
ゼノビアの鼻腔を、懐かしい香りがくすぐる。それは、彼女が魔族としての力を発現させ、修羅の道に身を投じる前、まだ「一人の少女」であった頃に、唯一心から信じていた肉親が作ってくれた、記憶の底に沈んでいたはずの料理の匂いだった。
「毒などは入っておりません。……どうしても疑うのであれば、今ここで私が、貴女の粥の半分を平らげて差し上げましょうか?」
アルベルトは、彼女の目の前で一匙を口にし、一切の淀みなく飲み込んでみせた。
「…………」
ゼノビアは、震える手で器を受け取った。
一口、口に含む。
瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
熱い。そして、あまりにも優しい。
毒を疑い、腐敗した保存食を噛み砕くしかなかった数百年の「不信」という名の氷が、その一匙の温もりによって、ドロドロと溶け出していく。
「……なんで、アンタは。……なんで、あたいに構うんだい。……あたいは闇の鼠だよ。光の当たる場所にいちゃいけない、汚れた存在なんだよ……」
「汚れているから、私がいるのです。……ゼノビア様。貴女はもう、闇の中で孤独に怯える必要はありません。……これからは、私が貴女の『影』になります。貴女が安らかに眠るため、城のすべての情報を私が管理し、貴女に届く前に、すべての不浄を私が消し去りましょう」
執事による、情報の独占と保護。
それは、諜報員にとって最大の敗北であり、同時に、最も待ち望んでいた「永遠の安らぎ」という名の契約であった。
「……あはは。……アンタ、本当に……最悪の男だねぇ……」
ゼノビアは、空になった器を抱きしめ、アルベルトの胸元に顔を埋めた。
信じられるのは自分だけ。そう言い聞かせてきた彼女の防壁は、一杯の粥と、一人の執事の「狂気じみた誠実さ」の前に、完全に瓦解した。
その様子を、水晶球越しに見ていた最高幹部筆頭――カサンドラの瞳が、凍てつくような殺意を持って光った。
「……魔王様、バルバラ、メルヴィ……そしてゼノビアまで。……人間よ、貴殿のその『奉仕』という名の侵略。……この私が、魔王城の誇りにかけて、ここで断たせてもらおう。……不浄な執事には、死こそが相応しい」
物語はいよいよ、最高幹部最後の壁、筆頭カサンドラとの全面対決へと向かう。




