第18話:影の中の救出劇
魔王城「パンデモニウム」の最下層。そこは、理性の光が届かぬ深淵であり、魔王軍最高幹部の一人、諜報員ゼノビアが数百年にわたり自らを縛り付けてきた「孤独の檻」でもあった。
ゼノビアは、自らの影に潜り込みながら、肺を焼くような荒い呼吸を繰り返していた。
全身を襲うのは、かつて経験したことのない奇妙な感覚――「安らぎ」への恐怖である。
数日間にわたるアルベルトの監視。そして、彼から与えられた「清潔な環境」と「安全な食事」。それらは、諜報員として常に死の淵を歩んできた彼女にとって、最も致死性の高い毒であった。
「……はぁ、はぁ……。あんな、あんな男に……あたいが……。……信じちゃダメだ。……あれは罠だ。あたいを無防備にさせて、情報を引き出すための……っ!」
彼女の視界が、不気味に歪み始める。
極度の不眠、慢性的な栄養失調、そして何よりも「誰も信じられない」という強迫観念。それらが臨界点を超え、彼女の魔力系統を内側から食い破っていた。
魔王軍最高幹部という地位にありながら、彼女の精神は、折れかけた一本の細い枝のように脆くなっていたのだ。
彼女の身体を支えていた影が、ドロドロと溶け出すように霧散していく。
魔力欠乏による過呼吸。ゼノビアの意識は急速に暗転し、彼女は冷たい、埃に塗れた石床の上へと崩れ落ちた。
誰も助けには来ない。ここは魔王城の暗部。死ねば影に溶けて消えるだけ。それが彼女の選んだ人生のはずだった。
――暗闇。
それは彼女にとって唯一の味方であり、唯一の居場所だったはずだ。
だが、今、彼女を包む闇は、彼女を飲み込もうとする怪物のように冷たく、底なしに深い。
その絶望の底に、場違いなほど規則正しく、優雅な足音が響き渡った。
カツ、カツ、カツ。
一歩ごとに、淀んだ闇が物理的に「洗浄」されていくような感覚。
「……ゼノビア様。このような不衛生な場所で眠る趣味があるとは、執事として看過できませんね」
闇が、一本の銀のナイフで切り裂かれたかのように割れた。
光を遮断するはずの彼女の聖域に、真っ直ぐな白銀の道が差し込む。その光の中心に立っていたのは、一点の曇りもない燕尾服を纏い、銀の燭台を掲げたアルベルトであった。
「……っ、アルベル……ト……。……来るな……。あたいの……闇に……触れるな……っ!」
ゼノビアは這いつくばりながら、拒絶の言葉を漏らす。だが、彼女の指先には、もはや短剣を握るどころか、自分の身体を支える力すら残っていない。
「貴女の闇がどれほど深くとも、私の『掃除』の手が届かぬ場所など、この城には存在しません」
アルベルトは迷いなく、ゼノビアが張り巡らせていた「死の結界」を歩行だけで踏み潰し、彼女の領域へと踏み込んだ。
彼は倒れ伏すゼノビアの側に膝をつくと、彼女の細く、数えきれないほどの古傷と呪印が刻まれた身体を、まるで壊れやすい白磁の芸術品を扱うような手つきで抱き上げた。
「……っ、やめろ……。あたいの、こんな……汚い……傷だらけの……身体を……見るな……っ!」
「汚い? 誰の目が、そのような間違った評価を下したのですか?」
アルベルトの低い声が、ゼノビアの鼓膜を震わせ、直接脳へと安らぎを送り込む。
「この傷は、貴女が闇の中で独り、魔王ルナリス様を守り抜くために戦い続けた、何よりも高貴な勲章ではありませんか。……執事として、主人の資産である貴女の肉体を、これほどまでに放置していた己の不徳を恥じるばかりです」
アルベルトは、彼女を抱えたまま、微動だにせず立ち上がった。
彼の手から伝わるのは、ただの体温ではない。それは、彼女の乱れた魔力回路を強引に、かつ優しく整える、精密な「魔力調律」の熱。
ゼノビアは、他人に触れられることへの生理的な恐怖よりも、その腕の中で感じる「生まれて初めての絶対的な安全」という麻薬のような感覚に、抗うことができなかった。
「……眠りなさい。ゼノビア様。貴女が目覚める頃には、この忌々しい闇も、貴女を苛む不信も、すべて私が洗い流しておきましょう。……貴女には、もう罠も、隠れ蓑も、毒味の必要もありません。この私が、貴女の『影』となり、すべての脅威を貴女に届く前に消し去ります」
アルベルトは、彼女を地下の冷たい闇から、自身が城の深部に密かに整えていた「秘密の茶室」へと運び込んだ。
そこは、音一つしない、完璧な防音と魔力遮断が施された純白の空間。中央には、人間界の王族ですら手に入れられない至高の寝具が、彼女という一人の少女を包み込むために用意されている。
アルベルトは、眠りに落ちたゼノビアの顔を覆っていた面布を、一寸の躊躇もなく外した。
露わになったのは、幼さすら残る、しかし過酷な隠密行に削られた一人の少女の、痛々しいほどに美しい素顔。
「……お疲れ様でした、魔王軍最高幹部。これからは、私の管理下で、最高の夢をご覧なさい」
アルベルトは、彼女が目覚めるまでの間、傍らの椅子に腰掛け、一冊の本を開いた。
彼がページを捲る規則的な音。それが、ゼノビアにとっての、人生で初めての「他人の存在を許容できる子守唄」となった。
しかし。
その一部始終を、壁に仕掛けた隠し魔法具の水晶球で凝視していた魔王ルナリスの心中は、もはや煮えくり返る嫉妬の業火に包まれていた。
「……アルベルト。……貴殿、あやつの素顔を……あんなに近くで……。……あやつを、余と同じように……いや、余よりも長く抱きかかえたのか……!!」
魔王の独占欲が、魔王城の結界そのものを歪ませ、鳴動させる。
執事アルベルトの「救済」は、城を盤石にする一方で、主人の心をかつてない混乱と激情の渦へと叩き落としていたのである。




