第17話:影の追跡者と執事の背中
魔王城「パンデモニウム」に、冷たい霧が立ち込める朝。
諜報のゼノビアは、自らの聖域であった「罠の迷宮」をアルベルトに半壊させられた屈辱に震えていた。彼女にとって、あのような圧倒的な力で平穏を強要されることは、暗殺の危機よりも恐ろしく、そして――言いようのない混乱を招く事態だった。
「……あんな男、絶対に裏がある。人間界の王家が、ただの『お世話係』を寄越すはずがない。魔王様やバルバラを骨抜きにし、城の深部に入り込む……。あいつは、史上最高に巧妙なスパイに違いないんだ」
ゼノビアは、アルベルトから「寄贈」された清潔な寝着を脱ぎ捨て、再び使い古した忍装束を纏うと、自身の影に溶け込んだ。
彼女の目的は一つ。執事アルベルトの「完璧すぎる仮面」の裏側を暴き、その正体をルナリスに突きつけることだ。彼女は魔王軍の耳目。誰にも見えない場所で、真実を嗅ぎ取ることこそがあたいの仕事だと、己に言い聞かせた。
追跡が始まった。
アルベルトの一日は、城内の誰よりも早く始まる。
午前四時。ゼノビアは城の厨房の梁に張り付き、息を潜めて彼を観察した。
(さあ、見せてみな。人間界への秘密通信か、それとも城の結界を弱める工作か……)
だが、ゼノビアが目にしたのは、狂気じみた「労働」の風景だった。
アルベルトは一人、巨大な釜を魔法で磨き上げ、同時に三つのコンロでルナリスのための特製スープを煮込み、空いた片手で城内のゴミの集積記録を完璧な数式で整理していた。
その動作には、一切の迷いも無駄もない。一秒の遅滞もなく、彼は次から次へと「城を維持するためのタスク」を冷徹なまでに完遂していく。
(……おかしい。いつまで経っても、通信魔法を使う気配がない。あいつ、まさか本当に……朝飯の準備に全神経を注いでるのかい?)
午前八時。アルベルトはルナリスに朝食を運び、そのまま息つく間もなくバルバラの騎士服の洗濯と、メルヴィの計算資料のバックアップ作業に入った。
ゼノビアは、天井裏や影の中を移動しながら、必死に彼を追い続けた。
だが、三時間を過ぎ、六時間を過ぎ、九時間を過ぎても、アルベルトは「休む」という行為を一度も行わない。
(なんなんだよ、こいつは……。人間だろ? 魔族のあたいだって、こんなに動き続けたら息が切れる。なのに……なんであいつの背中は、あんなに真っ直ぐなまなんだ?)
午後三時。アルベルトは、城の北側にある広大な中庭の草むしりに取り掛かった。
といっても、ただの草むしりではない。彼は「魔界の毒草」と「観賞用の花」を一瞬で見分け、一秒間に数回の速度で不要な草を抜き去り、土壌の魔力濃度を最適化するために、指先から精密な魔力供給を行っている。
その時。
あまりの過密スケジュールと、アルベルトの放つ「整頓された魔力」に当てられたのか、隠れていたゼノビアの意識が僅かに揺らいだ。
パキッ、と。
彼女が踏んでいた木の枝が、小さな音を立てて折れる。
「……おや。三時間ほど前から気配を感じていましたが、ようやく姿を現す気になりましたか。ゼノビア様」
アルベルトは、土に汚れた手袋を脱ぎ捨て、背後に立つ「影」に向けて、振り返りもせずに声をかけた。
「……ッ、気づいてたのかい」
ゼノビアは影から這い出し、苦々しく吐き捨てた。
「当たり前です。貴女の歩幅、呼吸の乱れ、そして……先ほどから漏れ出している『空腹による胃の鳴る音』。執事が、主人や同僚の体調不良に気づかぬはずがないでしょう」
アルベルトは、ようやく立ち上がり、ゼノビアと向き合った。
西日が彼の燕尾服をオレンジ色に染めている。その顔には、三日間の不眠不休の作業による「疲れ」など、欠片も見受けられなかった。
「……アンタ、正気じゃないね。あたいは、アンタの尻尾を掴もうとずっと見てたんだ。でも、アンタがやってるのは……ただの『奉仕』だけだ。なぜだい? 人間に、これほどの苦行を強いる理由はなんだ。何を狙ってる?」
「狙う? 心外ですね」
アルベルトは、穏やかな、しかし絶対的な自負を込めた微笑を浮かべた。
「私が狙っているのは、ただ一つ。――世界で最も美しい主人が、世界で最も快適な城で、世界で最も有能な配下に囲まれて過ごす『日常』です。それを整えることが、執事にとっての存在意義。……貴女が、あのような不潔な闇に隠れ、身体を壊していること自体、私の計画における『最大級のシミ』なのですよ」
「シミ……。あたいが、シミだってのかい」
「左様でございます。……さて、ゼノビア様。貴女は今日一日、私の背中を追い続け、その有能さを嫌というほど見せつけられたはずだ。……そろそろ、諦めて身を委ねなさい」
アルベルトは一歩、ゼノビアに近づいた。
「貴女のその傷だらけの肉体、そして他人に触れられることを拒む臆病な心。……それらすべて、私が責任を持って『洗浄』し、安らぎを与えて差し上げます」
ゼノビアは後退りしようとしたが、背後の影が、アルベルトの魔力によって既に固定されていることに気づいた。
逃げ場はない。
光の当たる場所で、完璧な執事に見つめられ、ゼノビアは生まれて初めて「守られる側」に回る恐怖と、そして抗い難い甘美な誘惑に襲われていた。
「……さあ、参りましょうか。本日の夕食は、貴女の故郷である東方の隠れ里に伝わる『滋養の蒸し料理』を再現してあります。……毒などという下品なものは入っておりませんよ。私自身の命が、その保証です」
差し出された白手袋。
ゼノビアは震える手を、吸い寄せられるように、その大きな掌へと重ねてしまった。
諜報の要、ゼノビアの「不信」という名の防壁が、アルベルトの「狂気じみた誠実さ」の前に、大きく揺らぎ始めた。
だが、その様子を城の窓から見ていたルナリスは、もはや言葉もなく、手元のティーカップを魔力で粉々に粉砕していた。
「……アルベルト。……貴殿、外でまで……あやつを口説いているのか……!!」
魔王の嫉妬は、今や城全体を焼き尽くさんばかりの熱量を帯びていた。




