第16話:闇に潜む鼠
魔王城「パンデモニウム」の最下層。そこは、上層の煌びやかな玉座の間や、知性の結晶である時計塔とは完全に隔絶された、城の「内臓」とも呼べる暗部である。
外光は一滴たりとも届かず、壁には湿った苔と、魔界特有の粘り気のある闇がこびりついている。時折、通気口から漏れ出す風の音が、死者の呻き声のように反響し、迷宮のように入り組んだ回廊は、侵入者の精神をじわじわと削り取っていく。
その最果て。物理的な「行き止まり」に見える壁の向こう側に、四天王が第四席――諜報のゼノビア・シャドウウォーカーの潜伏先はあった。
アルベルトは今、その暗闇の淵に、一点の曇りもない銀の燭台を手に立っていた。
彼の燕尾服は、地下特有の不快な湿気も、数百年分堆積した死の埃も一切寄せ付けない。その立ち姿は、禍々しい地下迷宮の中で、そこだけ空間が切り取られたかのような異様な「清潔さ」と「規律」を放っていた。
「……へぇ。また来たのかい。物好きというより、ただの自殺志願者だね、アンタは」
闇の奥、どこから聞こえてくるのかも判然としない、鈴を転がすような、しかし猛毒を含んだ低い声が響いた。
アルベルトは、手にした燭台の火を僅かに揺らし、虚空に向けて静かに一礼した。
「メルヴィ様の部屋が、ようやく人間に住める環境へと整いました。城内の不浄をすべて根絶すると決めた私の手が、この最下層の『膿』を無視するはずがないでしょう?」
「あはは……。あの引きこもりまで手懐けたってわけかい。滑稽だねぇ。……でも、あたいはあいつらみたいに甘くないよ。一歩でもそこから足を踏み出してみな。……アンタのその綺麗な喉笛、影から掻き切って、魔王様への供物にしてやるからさ」
瞬間、殺気が物理的な圧力となってアルベルトを襲った。
だが、彼は動じない。むしろ、その視線は足元の闇に転がっていた「物体」に向けられていた。
「ゼノビア様。……三本です」
「……何がだい」
「先ほどから私に向けて放たれている、その投剣の音。……三本とも、微かに空気を切り裂く音が濁っています。……毒の粘性が強すぎて刃の重心が狂っている。さらには、前回の任務から刃を一度も研いでいない。諜報員として、あまりに初歩的な、そして致命的な失態です」
「な……っ!? アンタ、暗闇でナイフの風切り音だけで……」
闇の中で、琥珀色の瞳が驚愕に揺れた。
アルベルトは、足元に突き刺さっていた一本の黒塗りのナイフを、音もなく指先で引き抜いた。
「私の目は、主人の品格を損なう『汚れ』を絶対に見逃しません。貴女がこのような鈍を握っていること自体、魔王城の安全保障に対する冒涜です。……不潔ですね、実に」
アルベルトは、そのまま躊躇なく闇へと踏み込んだ。
彼が足を踏み出すたび、ゼノビアが張り巡らせていた「致死性の警報糸」が、見えない刃によって次々と断ち切られていく。
「やめろッ! そこはあたいの領域だ! 入ってくるな!!」
ゼノビアが影に沈み、アルベルトの死角――背後から音もなく飛び出した。
手にした黒短剣が、アルベルトの項へと真っ直ぐに奔る。それは牽制ではない。本気で相手の命を断ち、沈黙させるための、一撃必殺の刺突。
だが。
カィィィンッ!!
硬質な音が、地下回廊に響き渡った。
ゼノビアの短剣は、アルベルトが振り返りもせずに掲げた「銀のトレイ」の縁によって、完璧な角度で受け流されていた。
「……っ!? あたいの『影刺』を、トレイ一枚で……!?」
「不潔な凶器が、私の予備のシャツに触れるのを防いだまで……さて、ゼノビア様。ご挨拶はその程度に」
アルベルトは、受け流した勢いそのままに、ゼノビアの手首を驚くべき正確さで掴み取った。
「ひ……っ! 離せ! 殺すよ、本当に……!」
「殺しても構いません。……ですが、その前に。貴女のその、三百年は洗っていないであろう『最悪の寝床』を、私が今すぐ解体させていただきます」
アルベルトは、彼女を強引に引き連れ、罠だらけの彼女の自室へと侵入した。
そこは、部屋というよりは「兵器庫」だった。天井から吊るされた毒矢、足元に仕掛けられた落とし穴、そして壁一面に張り付いた監視用の使い魔の目。自分を守るための仕掛けを過剰に積み重ねた結果、主であるゼノビア自身が身体を休めるスペースは、部屋の隅にある硬い冷石の床の上、わずか数センチしかなかった。
「……不眠、そして重度の拒食。貴女の身体からは、焦燥と、死への恐怖を紛らわせるための安物の保存食の匂いしかいたしません。……このような状態で、主人のための正確な情報選別ができるとお思いですか?」
「うるさい……! あたいを、あの能天気な連中と一緒にしないで……。あたいは闇の住人だ。アンタみたいな、光の中で綺麗事を吐く奴が一番信じられないんだよ!」
ゼノビアは布で隠された顔の下で、激しく呼吸を乱していた。
彼女にとって、他人に「自分の領域」に踏み込まれることは、魂を剥き出しにされるのと同義。ましてや、これほどまでに圧倒的な「善意(の形をした支配)」で踏みにじられるのは、人生で初めての経験だった。
「……ゼノビア様。貴女はこれまで、誰にも背中を見せず、誰の差し出す手も疑って生きてこられた。……それは立派な生存戦略でしょう。ですが、私の管理下では、そのような無駄な警戒は『非効率』なコストでしかありません」
アルベルトは、指を一つ鳴らした。
瞬間、廊下に控えていた彼の掃除用具たちが、自律魔法によって一斉に室内に突入。
天井の毒矢を回収し、落とし穴を魔法石で埋め、壁の使い魔たちを一匹残らず気絶させていく。
「やめろ、やめてくれ! あたいの罠を……あたいの居場所を壊さないで……!!」
「壊すのではありません。……貴女に、本当の『安息』を教えに来たのです。……さあ、その汚れた面布を取りなさい。……私の給仕は、素顔を晒せぬ者に施すほど安くはありませんよ」
アルベルトの冷徹な、しかし絶対的な安心を強要するような瞳が、闇の中でゼノビアを捉えた。
一方その頃、玉座の間では、水晶球に映し出される「暗闇での密着」を見たルナリスが、愛用の扇を粉々に握り潰していた。
「……アルベルト。……貴殿、今度はあやつの手首を掴んだか。……余の知らない闇で、あやつを追い詰め……。……許さぬ。絶対に、許さぬぞ」
魔王城に、新たな嫉妬の嵐が吹き荒れようとしていた。




