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【幕間】魔王の独占欲と執事の深夜メンテナンス

 魔王城「パンデモニウム」の最上階。紫がかった二つの月が、天頂で重なり合うように静止している。

 普段であれば、風の音一つしない静寂が支配するこの場所だが、今夜ばかりは城の深部から「軋み」のような音が漏れ出していた。それは、城そのものが、主である魔王の激しすぎる感情の昂ぶりに呼応して、恐怖に震えているかのようであった。


 アルベルトは、時計塔での長きにわたる清掃作業――正確には四天王の一人、参謀メルヴィの「生活基盤の再構築」を完遂し、主への報告のために廊下を進んでいた。

 彼の燕尾服は、三日間の激務を経たとは思えないほど、一点の曇りも、一筋のシワも存在しない。執事とは、常に主人の前に現れるその瞬間こそが「完成形」でなければならないというのが、彼の譲れない美学であった。


 しかし、主の執務室へと続く重厚な扉の前に立った瞬間、アルベルトのモノクル(魔力測定器)が、かつてない数値を叩き出した。

「……これは、想定を遥かに超えていますね。清掃を怠ったボイラー室のように、心圧が臨界点に達しています」


 アルベルトは、僅かに眉を動かすが、その足取りに迷いはない。

 彼は扉の前で、完璧な姿勢を保ったまま、指の関節で三度、正確なリズムを刻んだ。

「ルナリス様。アルベルトでございます。ただいま、戻りました」


 返答はない。代わりに、内側から凄まじい魔力の奔流が漏れ出し、厚さ二十センチを超える黒石の扉が、ミシミシと不気味な音を立ててしなった。

「……入れ」

 ようやく聞こえた主の声は、地底から響くような低さと、凍てつくような冷徹さを帯びていた。


 アルベルトが扉を開け、一歩踏み出した瞬間。

 背後でドォォォォンッ! という衝撃音と共に扉が閉ざされた。それだけではない。扉の隙間、鍵穴、さらには窓の枠に至るまで、ルナリス自身の魔力によって生み出された漆黒の茨が走り、室内を完全なる「隔離空間」へと変質させたのだ。


 執務室の奥。巨大な黒檀の机に肘を突き、燃えるような真紅の瞳でこちらを射抜いているのは、魔族の頂点――ルナリス・ヴォル・ゼーレ。

 彼女の周囲では、行き場を失った魔力が黒い炎となって揺らめき、その熱にあてられて、アルベルトが今朝生けておいたはずの最高級の白百合が、見るも無惨に黒く焼け落ちていた。


「アルベルト。……貴殿は、ずいぶんと『多忙』であったようだな」

 ルナリスの声には、隠しきれない刺々しさが混じっている。

「はい。メルヴィ様の部屋は、三百年分の不浄が堆積した魔窟でございましたから。……ですが、おかげさまで、主人のための『最高の頭脳』は、今や完璧に再起動いたしましたよ」


「……あやつの脳のことなど、今はどうでもいいのだ!!」

 ルナリスは、机の上の書類をなぎ払い、猛然と立ち上がった。

「貴殿、自分が余を何日放置したか分かっているのか!? 三日だ! 丸三日の間、貴殿は余の呼び出しに背き、あの引きこもりの部屋に泊まり込み……あやつの髪に触れ、あやつに甲斐甲斐しく食事を運び、あやつが眠りにつくまでその手を握っていたそうではないか!」


「それは、治療の一環でございます。メルヴィ様は深刻な孤独症を――」

「黙れッ!!」

 ルナリスは、床を爆砕させるような勢いでアルベルトに詰め寄り、彼の胸ぐらを両手で掴んだ。魔王としての超常的な怪力により、アルベルトの身体が背後の壁にめり込み、漆黒の茨が彼の肩を威圧するように絡みつく。


「バルバラの時もそうだ……。あやつを脱がせ、その肌を慈しみ、磨き上げ……。次はメルヴィだと? 貴殿は、余の配下を次々と骨抜きにして、一体何を企んでいる!? 余という、唯一無二の主人がいながら……! 貴殿のその指先が、余以外の女に触れていると思うだけで、余は……この城も、この世界も、すべてを無に帰したくなるのだ!!」


 ルナリスの真紅の瞳は、激しい怒りと、それ以上に深い「悲しみ」に揺れていた。

 彼女は魔王として、常に「強者」であることを義務付けられてきた。だが、アルベルトという完璧な執事を得たことで、彼女は生まれて初めて「甘える」という快楽を知ってしまった。そして一度その毒を味わえば、かつての孤独には二度と戻れない。


「……余だけの執事でいろ。余以外の者に、そのように献身的な眼差しを向けるな。……これは、命令だ。貴殿をこの城に招いたのは余だ! 貴殿という『最高の奉仕』を独占する権利を得たのも、余なのだぞ……!」


 ルナリスは、アルベルトの胸に顔を埋め、子供のように肩を震わせた。

「……三日だぞ。三日間、余は貴殿の淹れたお茶を飲めず、貴殿の施すマナーに叱られもせず……。貴殿のいない夜が、これほどまでに冷たく、永いものだとは知らなかったのだ……」


 アルベルトは、僅かに目を細め、自らの胸元で震える主人の小さな角を、慈しむように見つめた。

 彼は、シワの寄った自らの燕尾服には目もくれず、ルナリスの肩を優雅に、しかし逃げ場を許さない力強さで包み込んだ。


「……おいたが過ぎましたね、ルナリス様。主人の心の乱れは、即ち城の乱れ。……貴女様の中に溜まりに溜まった『独占欲』という名の不純物。……今すぐこの私が、根こそぎ洗浄して差し上げましょう」


 アルベルトは、抵抗を許さない滑らかな動作で、ルナリスの身体を軽々と抱き上げた。

「な……っ!? な、何を……」

「お仕置きの準備は、既に整えてございます」


 アルベルトは、彼女を抱えたまま、茨に覆われた執務室の奥にある「秘密の休息所」へと歩み出した。

 そこは、彼が三日間の不在中、密かに魔法具を稼働させ、ルナリス一人のためだけに整え続けていた、魔王城最大の「禁足地(癒やしの聖域)」であった。


 茨に封鎖された執務室のさらに奥。そこは、アルベルトが着任以来、少しずつルナリスの魔力波長に合わせて調整を続けてきた、彼女専用の聖域である。

 アルベルトの腕に抱かれたまま、ルナリスは荒い呼吸を整えようとしていたが、部屋に足を踏み入れた瞬間、その鼻腔をくすぐった香りに全身の力がふわりと抜けるのを感じた。


「……っ、これは、何の香りだ……? 脳の芯が、痺れるような……」

「貴女様のためだけに調合した、魔界の深層に咲く『夢見草』と、人間界の古の香油を融合させた芳香でございます。主人の怒りと焦燥を溶かすには、これほどの劇薬が必要かと思いまして」


 アルベルトは、ルナリスを中央に鎮座する、雲のように柔らかい長椅子カウチへと静かに横たえた。その椅子ですら、ルナリスの体温に反応して最適な硬さに変化するよう、彼が魔法的な細工を施したものだ。


 ルナリスは、横たわったまま見上げるアルベルトの姿に、得体の知れない恐怖と、抗い難い期待感を抱いていた。

 アルベルトは、完璧に整えられていた燕尾服の上着を、音もなく脱ぎ捨てた。そして、ワイシャツの袖を捲り上げ、その逞しい前腕を露わにする。それは、給仕を行う執事の腕ではなく、獲物を「解体」し、あるいは「再構築」する支配者の腕であった。


「ルナリス様。貴女様は三日間、余計なものばかりを溜め込みすぎました。……嫉妬という名の猛毒が、貴女様の美しい魔力回路を泥のように汚しています」

 アルベルトは、水晶の小瓶から黄金色のオイルを手に取った。

「これから行うのは、ただのマッサージではありません。貴女様の存在そのものを、私という執事の手に委ねていただく『絶対的な浄化フルメンテナンス』です。……覚悟はよろしいですか?」


「……っ、く……。好きにせよ。……余は、貴殿を罰するつもりで呼んだのだ。……それなのに、なぜこれほどまでに貴殿の指を求めてしまうのだ……」

 ルナリスの言葉は、アルベルトの熱い掌が、彼女のうなじに触れた瞬間に甘い悲鳴となって消えた。


「ひ、あ…………っ!!」

 ルナリスの身体が、弓なりに跳ねる。

 アルベルトの指先から流れ込むのは、精密に制御された、しかし暴力的なまでに純度の高い魔力の律動。それが、ルナリスの中で荒れ狂っていた黒い魔力を、強引に、かつ優しく撫でつけるように整えていく。


 アルベルトの指先は、まるでルナリスの体内の魔力回路図をすべて暗記しているかのように、滞っている箇所を正確に突いていく。一突ひとつきごとに、ルナリスの脳裏には閃光が走り、数百年にわたる「魔王」としての孤独な緊張が、音を立てて崩れ去っていく。


「声を殺す必要はありませんよ、ルナリス様。ここは、私と貴女様だけの隔離空間。……誰にも、貴女様のこのような無防備な姿は見えません。……バルバラ様にも、メルヴィ様にも、決して、見せはいたしません」

「あ、アルベル……ト……。貴殿、は……本当に……恐ろしい男だ……」


 アルベルトの手は、容赦がなかった。

 ルナリスのドレスのファスナーを、魔法的な手際で解き、剥き出しになった背中へと、灼熱のオイルを惜しみなく注ぎ込む。

 指先が肩甲骨の縁をなぞり、脊椎に沿って深い圧をかけ、滞っていた魔力の澱みを強制的に排出させていく。


 ルナリスにとって、それはもはや「悦楽」という言葉では生ぬるいほどの衝撃だった。

 魔王として、何百年も一人で背負ってきた統治の重圧。誰にも見せられなかった弱さ。それらすべてが、アルベルトの大きな掌によって暴かれ、洗い流され、そして「執事のもの」として書き換えられていく感覚。


「……あ、ああ……っ! 脳が、溶ける……。余の……余のすべてが、貴殿に塗り潰される……!!」

「左様でございます。……貴女様は、ただ私に支配されていればよろしい。……嫉妬に狂うことも、孤独に震えることも、この私がいれば不要なこと。貴女様のナカにある不浄は、すべて私が飲み込んで差し上げましょう」


 アルベルトは、ルナリスの耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に囁いた。

 彼の指先は今や、彼女の肋骨の隙間をなぞり、呼吸を整えるための禁忌の術式を直接肉体に刻み込んでいる。ルナリスは抗う術を持たず、ただただアルベルトという波に呑み込まれていく。


「……貴女様の代わりなど、この世界のどこにもおりません。……私の最高傑作(主人)は、貴女様ただお一人なのですから。……バルバラ様へのケアも、メルヴィ様への整理も、すべては貴女様という至高の宝石を輝かせるための『下準備』に過ぎないのです」


 その囁きは、ルナリスの心の奥底に刺さっていた「孤独」という名の棘を、一気に引き抜いた。

 嫉妬とは、自分だけを見てほしいという究極の願い。

 その願いを、アルベルトは、自分自身の魂を削り出すような濃密な奉仕で、完璧に埋めてみせたのだ。


「……あ、う…………アルベルト……」

 ルナリスの瞳は虚ろになり、その真紅の光は、熱に浮かされたように揺らめいている。

 アルベルトは仕上げとばかりに、彼女の背中にある魔力のコアへと、全魔力を注ぎ込んだ。


 ドォォォォンッ!!

 ルナリスの体内で、魔力の爆発が起こる。それは破壊の魔法ではなく、完璧な調律。

 すべての細胞が活性化し、かつてない多幸感が彼女を包み込んだ。


 数時間後。

 茨に覆われた執務室の中に、ようやく静寂が戻った。

 カウチの上で、ルナリスは完全に毒気を抜かれ、アルベルトの腕の中で安らかな寝息を立てていた。その肌は、オイルと魔力の循環によって、月の光を浴びる白磁のような輝きを放ち、その表情には、かつてないほどの幸福感が宿っている。


 アルベルトは、彼女をそっとベッドへと運び、最高級のシルクの毛布を丁寧に掛け直した。

「……おやすみなさいませ、私の愛しい主人。貴女の夢の中まで、私が整えて差し上げましょう」


 彼は、自らの乱れたシャツの襟を鏡も見ずに完璧に整え、再び一点の隙もない執事の姿へと戻る。

 窓の外を見れば、夜明けはまだ遠い。


「……さて。主人の機嫌はこれ以上ないほどに整いました。……ですが、城の『闇』には、まだ掃除の行き届いていないネズミが潜んでいるようですね」


 アルベルトの視線は、城の影に潜み、自分を殺さんとする第四の四天王――諜報のゼノビアの気配を、既に完全に捕捉していた。

 

 嫉妬を愛に変え、魔王を完全に陥落させた執事。

 彼の「掃除(攻略)」の手は、いよいよ魔王城最大の不信へと潜り込んでいく。


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