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第15話:賢者の休息と次の火種

 魔王城の時計塔。かつて「開かずの間」と呼ばれた参謀室は、今や城内で最も神聖な静寂が漂う、最高効率の演算室へと生まれ変わっていた。

 アルベルトの「整理整頓の暴力」によって情報の濁流から解放された参謀メルヴィは、清潔なシーツに包まれたリクライニングチェアに深く身を沈め、穏やかな寝息を立てている。


 その傍らで、アルベルトは一点の曇りもない動作でティーセットを片付けていた。

「……さて。情報の整理、肉体のケア、そして思考の同期。メルヴィ様に関する当面のメンテナンスは、これで完了ですね」

 アルベルトは、眠るメルヴィの額にかかった薄紫色の髪を、指先で僅かに整えた。

 三百年もの間、ゴミの山に埋もれて孤独な計算を続けてきた天才は、今や執事という名の「外部装置」に自身の生命活動と情報の検索をすべて預け、赤子のように深い安らぎの中にいた。


 だが、その静寂を破るように、アルベルトの懐にある魔導通信機が僅かに震えた。

『――アルベルト。至急、余の執務室へ参れ。……一人でだぞ』

 通信機から聞こえてきたのは、魔王ルナリスの、低く、そしてどこか冷え冷えとした声であった。


「……おや。主人のご機嫌に、暗雲が垂れ込めているようでございますね」

 アルベルトは僅かに口角を上げると、メルヴィに一枚の薄いブランケットを掛け、音もなく部屋を後にした。


 魔王の執務室。扉を開けた瞬間、アルベルトを襲ったのは、物理的な魔力の重圧であった。

 玉座に深く腰掛けたルナリスは、手にした扇をピシャリと閉じると、燃えるような真紅の瞳でアルベルトを射抜いた。

「アルベルト。貴殿は、ずいぶんと忙しいようだな。バルバラの甲冑を磨き、マナーを教え……そして今度は、メルヴィの部屋に数日も泊まり込みで掃除をしていたそうではないか」


「左様でございます、ルナリス様。すべては貴女様の資産である四天王を、最高の状態に保つための職務でございます」

「職務、か。……ふん、貴殿はいつもそうだ。その『完璧な奉仕』という名目で、余の配下たちを次々と骨抜きにしていく」


 ルナリスは玉座から立ち上がると、一歩、また一歩とアルベルトへ近づいた。

 彼女の体からは、焦燥と嫉妬が入り混じった、甘く鋭い魔力が放たれている。

「バルバラの肌を慈しみ、メルヴィに『あーん』と食事を運び……。貴殿のその指先は、一体何人の女の心を解かせば気が済むのだ? ……余という主人がいながら」


「……ルナリス様」

「黙れ。……今夜は、誰にも邪魔をさせぬ。貴殿を、余以外の何者にも触れさせん」

 ルナリスは、アルベルトの胸元に手を置き、彼をそのまま背後の壁へと押し込んだ。

 魔王としての力ではなく、一人の女性としての、剥き出しの独占欲。


「貴殿をこの城に招いたのは、余だ。貴殿を最初に見出し、その首輪を握ったのも、余だ。……忘れるな、アルベルト。貴殿の魂の帰属先は、いついかなる時も余の足元にあるのだということを」


 アルベルトは、至近距離で見つめてくる主人の熱い視線を、真っ向から受け止めた。

 彼は静かに手を伸ばし、ルナリスの震える肩を包み込むように引き寄せる。

「……滅相もございません。私の『至高の奉仕』は、常に太陽である貴女様のために。四天王へのケアは、あくまで貴女様の庭を彩る花々を整える作業に過ぎません」


 アルベルトは、彼女の耳元で、低く、深く響く声で囁いた。

「……嫉妬に狂う主人の姿もまた、執事にとっては至上のご褒美でございますよ。……さあ、今夜は心ゆくまで。貴女様だけが味わえる、特別スペシャルなメンテナンスを始めましょうか」


 ルナリスの独占欲が、アルベルトの腕の中で甘い吐息へと変わっていく。

 攻略者が増えるたびに、城内の均衡は崩れ、執事を巡る「争奪戦」は激化していく。

 しかし、それは同時に、魔王軍がかつてないほどに一人の男を中心に、歪で強固な「団結」を見せ始めていることでもあった。


 そんな蜜月の裏側で。

 魔王城の最下層、情報すら届かぬ暗部にて、四天王の第四席――諜報のゼノビアが、暗闇の中からその瞳を光らせていた。

「……へぇ。魔王様も、バルバラも、あの引きこもり(メルヴィ)も……。ずいぶんとあの男に飼い慣らされちまって。……面白くないねぇ」


 彼女は、毒を塗った短剣を弄びながら、不敵に笑う。

「完璧な執事……。アンタのその仮面の下に、どんな醜い『裏』が隠されているか。……あたいが、徹底的に暴いてやるよ」


 魔王城最大の「不信」を抱く諜報員。

 アルベルトの掃除の手は、いよいよ光の届かぬ闇の中へと、深く潜り込んでいく。



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