第14話:整理整頓の極致
魔王城の北端、天を衝く時計塔の内部は、かつて数百年分の「情報の死骸」が堆積する地層であった。
しかし、アルベルトがその扉を開けてから数日。そこは、魔界の住民がかつて目にしたことのない、冷徹なまでの「美しき秩序」が支配する聖域へと変貌を遂げていた。
三百年ぶりに磨き上げられた白大理石の床は、鏡のように天井の魔法灯を反射している。かつて鼻を突いていた古書のカビ臭さと魔獣の死骸の悪臭は消え去り、代わりにアルベルトが調香した「思考を研ぎ澄ますハーブ」の香りが、清浄な空気の中に漂っている。
参謀メルヴィは、そのあまりに清潔な空間の中心で、呆然と立ち尽くしていた。
「……あはは。……なんということだ。僕の脳が、かつてないほどに凪いでいる。……視界の端々にこびりついていた計算の残滓が、一滴残らず消え去っているんだねぇ、執事さん」
メルヴィの瞳には、重度の栄養失調と不眠で濁っていた輝きに代わり、万物を見通すような鮮烈な、そして少しばかり「空虚な」知性が宿っていた。
「凪いでいるのではありません。……これが、主人の参謀としてあるべき『正常な状態』なのです。メルヴィ様」
アルベルトは、シワ一つない予備の手袋を嵌め直すと、背後に高くそびえ立つ、整然と分類された「知識の壁」へと視線を向けた。
それは、ゴミの山からアルベルトが選別・救出した、数万冊に及ぶ魔導書、古文書、そして魔王軍の軍事秘匿資料である。
「メルヴィ様。貴方はこれまで、この膨大な知識の海に『溺れて』いました。……どこに何があるか分からぬまま、必要になるたびに魔法で無理やり情報を引き出す。その場しのぎの検索行動が、貴方の脳を疲弊させ、思考のゴミを溜め込ませていたのです」
「……そうだねぇ。……僕は、知っているはずの答えを探すために、一生の半分を費やしてきたのかもしれないなぁ。……でも、それが僕の『混沌』だったはずなんだよぉ」
「混沌は、無能を隠すための外套に過ぎません。……執事の『分類学』をお見せしましょう。……貴方の知能を、魔王様のために一滴残らず使い切っていただくために」
アルベルトの「整理」は、もはや家事や事務の領域を遥かに超えた、一種の空間改変術に近いものだった。
彼は指先を僅かに動かし、虚空に無数の「概念の座標」を展開した。
アルベルトが指を鳴らすたび、床に積まれていた数万冊の書籍が、まるで意志を持った小鳥の群れのように一斉に舞い上がり、空中に固定された不可視の書架へと、寸分の狂いもなく収まっていく。
それは、単なる五十音順や年代別の整理ではない。
「魔王ルナリス様がいつか必要とされる可能性」と、「メルヴィの思考回路の癖」を完全に同期させた、究極の最適化だ。
「な……っ!? 君、今……、一瞬ですべての書籍の内容を走査したのかい……!? 古龍の言語で書かれた禁書から、失われた超古代の演算式まで……すべてを分類したというのかぁ!?」
メルヴィは、その光景に戦慄し、膝を震わせた。
アルベルトは、一冊一冊を棚へ収めるその刹那、表紙を撫でるだけで中身の情報を魔力で読み取り、メルヴィの脳に直接「検索用タグ(タグ・データ)」として同期させていくのだ。
「整理とは、物理的な配置を変えることではありません。……必要な時に、必要な情報が、主人の指先へ即座に届く導線を作ることです。……さあ、メルヴィ様。試しに、三百年前に失われたとされる『古代炎魔法の理論書』を、心の中で検索してみてください」
「……え? あ、うん。……えーっと、確か……」
メルヴィが思考を走らせた瞬間、彼の目の前の空間が僅かに揺らぎ、一冊の古びた本が、音もなく、かつ完璧な角度で彼の手元へと差し出された。
「……っ!!」
メルヴィは震える手でその本を受け取った。
探す必要がない。思い浮かべた瞬間に、知識が実体を持って現れる。
それは、魔界一の天才である彼ですら、これまで一度も到達し得なかった、情報の「神の視点」に近い感覚。
「これが……整理整頓の、極致かぁ。……あはは、怖いねぇ。……君がいるだけで、僕の脳は……僕一人でいた時の百倍の速度で、世界を計算できる……。いや、それどころか……」
メルヴィは、本を手放し、そのままアルベルトの胸元へと力なく倒れ込んだ。
重圧から解放された安堵感。そして、自分の脳が、この完璧な執事の「管理」なしではもはや機能不全に陥るという、甘美な絶望。
「……ねぇ、アルベルト。……僕はもう、君がいないと、何も見つけることができないよぉ。……君がいないと、自分が何を考えるべきかすら……わからなくなっちゃいそうだなぁ……」
メルヴィの瞳には、信頼を超えた、深い「依存」の色が宿っていた。
アルベルトは、そんな参謀の頭を、冷徹に、しかし慈しむように優しく撫でた。
「左様でございます。……これからは、貴方の脳を管理する権利も、私に一任していただきます。……貴方はただ、主人のために最高の答えを出すことだけを考えればよろしい。……不浄な情報の処理、資料の検索、さらには貴方の思考のバックアップまで……すべて私が引き受けます」
一人の天才を「機能の一部」として完璧に使いこなすための、執事によるシステム構築。
メルヴィは、アルベルトが用意した清潔なベッドの上で、数百年ぶりに「悪夢を見ない、一点の曇りもない眠り」へと落ちていった。
しかし。
時計塔の窓から、二人の様子を遠隔魔法で「視認」していた魔王ルナリスの心中は、決して穏やかではなかった。
「……アルベルト。……貴殿は、バルバラを磨くだけでなく……今度はメルヴィの脳内まで、そのように……甘い支配を施すのか」
ルナリスの握りしめた扇が、パキリと微かな音を立てて砕ける。
彼女は知っていた。アルベルトが有能であればあるほど、城内の女たちが彼に「依存」し、彼なしでは生きられなくなっていくことを。
魔王としての権威は、かつてないほど強固になっている。しかし、一人の女性としてのルナリスの独占欲は、もはや臨界点に達しようとしていた。
「……バルバラ、メルヴィ……。次は、誰が貴殿の毒に侵されるというのだ……。執事よ、貴殿の主人は、余一人であることを……忘れては困るぞ」
攻略者が増えるたび、魔王城は強固なものとなる。
だがそれと同時に、執事アルベルトを巡る「主人の嫉妬」という名の嵐が、静かに、しかし確実に吹き荒れようとしていた。




