カビたような湿っぽさ
東京タワーに踏み入れてまず、墓地を連想した。
土と墓石のカビたような湿っぽさに、切り花の彩りと抹香を加えたような世界。
現実とは違う世界の匂いに、ライカは心当たりがあった。
(ここ、異界? ……ううん、違う。まだフェーズⅡ、くらい……)
異界になる一歩手前。
変質しようとも、ギリギリで現実に踏みとどまっていた。
(でも、普通のフェーズⅡとも違う? プールに濃い原液を垂らして広がった、水と薄まった原液の境、みたいな……)
魔導災害フェーズⅢ、異界にまで進行せずとも、災害は災害だ。
元凶が世界の敵と断言される存在なら、フェーズの低さなど誤差でしかない。
神造兵器の手を借りなければ、悠太を撤退させられなかったのなら、自分ごときが油断して良いはずがない。緩みかけた気を引き締め直すと、思わず悲鳴が漏れた。
「――ひぅっ」
人が倒れている。
何人も何人も、武器を持ったまま床に伏せ、微動だにしない。
墓地に近い空気で倒れているのだから、死体が転がっているのかと後ずさる。
「救急車っ――は動いてるはずないかなら香織ちゃんに……動いてくれるはずないから自分で動かないとまずは……そう生存確認からでいいんだけっけえっと脈があるかは手首……触っても分からなそうだから呼吸を確認してなかったら心臓に耳を当てて……」
テンパって考えが全て口から溢れ出る。
倒れているのは悠太が気絶させたからなので、当然生きている。全員が赤い破滅の端末なので、生存確認や救助をせずに放置が正しい行動なのだが、事情を知らないライカに求めるのは酷であろう。
冷静になれば行動の無意味さに気付く頭もある。
「良かった。全員、生き…………よくよく考えたら、やったの悠太くんだよね。祓魔剣なら気絶させるの簡単だし。なら放置して……するのが正解。今の状況じゃするしかない。分かってるけど、なんかヤダな……」
魔導の有無にかかわらず、戦いの中では非情な判断をしなければいけない。
助けた敵兵に守るべき民衆を殺されるなどは序の口。救助などの人道的行為にリソースを割いた結果、魔導災害の鎮圧が遅れて救助した以上の被害が出るなど、よくあること。魔導一種や奥伝などの最精鋭を何十人と投入して、一体の古種に全滅させられるのが日常茶飯事。
万全を尽くし、非情に成り下がっても結果を出すために、プロは訓練をする。
どれほどの被害を出しても、目的のために手を止めないよう思考を持てるよう、訓練を重ねた者がプロと呼ばれる。
プロどころか、ただの受験生であるライカに、非情を強要するなど無理な話なのだ。
「…………エレベーター、使っていいんだよね」
エレベーターのドアから、より濃い墓地の臭いが溢れ出る。
思わず鼻を押さえながらライカは乗り込む。展望エリアまで、わずか四五秒の旅。空へと近付くほどに臭いは濃くなっていく。湿っぽさとカビ臭さは増すだけでなく、むせ返るような鉄臭い血の臭い。
上層へと向かっているはずなのに、地下へと下るような錯覚。
壁に手を当て支えにしなければ崩れ落ちそうな重圧は、まさしく異界であった。
(エレベーター、使って良いって言うわけだ。非常階段を使ってたら昇り切れなかった)
ドアが開くと同時に、血臭の正体を理解した。
展望エリアを埋め尽くす赤い呪詛の霧。これこそが魔導災害フェーズⅡの根幹であると、理解した。
(東京タワーに入って臭いが濃くなったのは、単純に元凶に近いから。地上で臭いがなかったのは、階層があまりにも違うから。この赤い世界では、地下じゃなくて空こそが死の世界ってこと?)
違和感を臭いとして感じているが、実際に臭いがあるわけではない。
呪力の性質、異界の特性を、嗅覚という形に変換しているに過ぎない。これは魔導師にはよくあること。嗅覚以外にも、味覚や視覚、触覚や聴覚に変換されることもあり、こればかりは個人差というものだ。
(ここまで現実に影響が出てるってことは、中心はフェーズⅢじゃすまない。Ⅳや、下手したらⅤもありえる……あ、だから香織ちゃん達が動いてるんだ)
東京タワーのフェーズⅡは、あくまでも異界から漏れ出た影響に過ぎない。
ならば、より血臭の濃い地点。赤い霧の発生地点こそ、ライカが向かうべき場所なのだ。
(……確か、朱い妖精と一緒にいた、神造兵器だったよね……あの妖精が関わってるのかな? でも、あの異界とはあまりにも違うし)
朱い妖精のヴァルハラ異界は、冥府としては正統派だ。
神話に語られる世界を忠実に再現しており、神話の知識を活かせる場面があった。
だが、この赤い世界は違う。あまりにも、人の世界に近かった。
(冥府は地下と結びつけられやすい。土葬は地下に埋めるし、放置された死体も土に返る。冥府に寒いイメージがあるのも、死者が増える冬と結びつけられるからだし、地面に近い方が寒いから余計に地下と冥府は結びつく。なのに、この世界では冥府は空にある)
冥府、死後の世界は大きく二つに分けられる。
一つは地獄、もう一つは天国。
地下と結びついた冥府は主に地獄であることが多く、死後の理想郷でもある天国は空と結びつけられる。朱い妖精のヴァルハラも天国に属する冥府であるが、赤い呪詛の世界はそれとも違う気がした。
「…………ぁ」
身体が止まった反動で、肺腑から声が吐き出された。
赤い霧の中心点に辿り着いたのだ。
「今日は…………千客万来、ですね」
死者だ。まだ生きているだけの、死者がいた。
赤い女としか形容できない、生ける屍が胸を押さえて蹲っている。
神造兵器さえも動きを止める彼岸と此岸の境目で、まだ生きて動いている死者。何を意味するのか、言われずとも分かる。彼女こそが元凶。彼女こそが世界の敵。
何と声をかけるべきか。
考えてしかるべき状況であるのに、自然と口が動いた。
「大丈夫、ですか……? 救急車……呼びましょうか?」
二人の間に、静寂が流れる。
赤い女は何を言われたのか分からず。
ライカは何口が動いた理由が分からず。
「……――あっ。救急車動いてるわけないですよね……あはははは」
「え……ええ、そうですね……ワタクシ達の世界が漏れ出した影響で、多くの人が動きを止めていますから」
二〇秒ほど、だろうか。
何も言えない時間が続いた。
「世界の敵を心配していいのですか? ワタクシを助けるとはつまり、この異変を許容すると言うことですよ」
「分かってます……けど、死にかけてる人がいたら、心配します。ダメなことって分かってても、心配しちゃいます!」
「道理、ですね。……心の動きを否定することは、ワタクシにはできません……ワタクシ達を、否定することに繋がるので……」
会話と呼ぶにはあまりにも短いやり取りであるが、普通に成立した。
朱い妖精にも匹敵するほどの世界変容。その中心点であるのに、普通の人のように意思疎通ができてしまった。
だから気になってしまった。
「あの……なんで、こんなことをしたんですか?」
赤い女が魔導災害を起こした理由を、聞いてしまった。
「こんなこと、とは……魔導災害のことですか?」
「はい。聞いてはいけないこと、かもしれません。聞かないで欲しいこと、かもしれません。……でも、聞かせて欲しいと、思ってしまって……」
きっと、碌でもない理由なのだろう。
呆れてしまうほど、子供じみた理由かも知れない。
聞いたことを後悔するかも知れないのに、聞いてしまった。
「……長く、なりますよ」
「構いません。理解できなくても、聞きたいんです」
ライカと会話が成立するほど普通の人が、なぜ世界の敵に堕ちてしまったのか。
関東全域を赤い呪詛で覆い尽くすほどの魔導災害を、起こすに至ったのか。
聞きたいのは、その根幹であるのだから。
お読みいただきありがとうございます。
次回は、8月29日(土)1:00 を予定しております。
執筆の励みになりますので、ブックマークや評価、感想などは随時受け付けております。よろしければぜひ是非。




