■を■りたい
後輩くん、と称されて既視感を覚える。
自分を対象とした呼称ではなく、自分が誰かに言ったような感覚に、苛立ちや眩しさが混ざったような表現しづらい感情がブレンドされる。
「おーい、おおーい、反応なしかーい?」
「ああ、済まない。後輩くんという呼び方に、感情が動いてな」
「なるほどなるほどな~るほど、失った記憶を取り戻す手がかりを探しているんだね。名前を取り戻すために必須の条件だから当然と言えば」
「いや、苛立ちやら何やらを振りまきそうになっただけで、記憶なんかは特には」
「なんでっ!? そこは気にしようよっ!?」
興味はないとは言わない。
取り戻さないと不便とは感じているが、急ぐ理由を見いだせていなかった。
「そう言われても……記憶があろうがなかろうが、俺は俺だからな。少なくとも、この煮えたぎるような衝動と渇望がなくならない限り、ブレはないと思う」
「我が強いタイプだね。まあ、でなければここまでこないか。――気にしてないだろうが、言っておくよ。この異界が記憶と名前を奪うのは、ワタクシ達の一員にするためだ。根本が染まった後ならば、どちらも返してここから出す。そういうルールだ」
「さっき、名前を取り戻す条件と言ってたが、名前を取り戻したから出られるというだけか? 剥奪された状態なら、ワタクシ達の一員になった後も残り続けるのか?」
「察しが良いが、その通りだ。でも、勘違いしてはいけないよ。外――現実に身体がある場合は名前を返す。ない場合は、名前と引き換えにここに残る。つまり君が看破したように、ここにいるのは死者ばかりというわけだ」
異界に関する知識はある。
魔導災害の中でも危険度の高い部類。現実の法則の通じない世界であり、その法則に晒されながら攻略をする。
「異界にしては、ヌルくないか?」
「何言ってるんだい、君は? 二〇〇〇万人ほどが挑戦して、誰一人攻略できずにワタクシ達の一員になった最高難易度の異界だぞ」
「あれだけ整合性のない会話を繰り広げられたら、否が応でも気分が冷める。ここでようやく、まともな会話が出来るくらいだ」
廊下を歩いている最中も、幾度のなく声をかけられたのだ。
名前らしきものを呼ばれもしたが、だれも同じ名前を言っていない。反応したところで有益な情報は得られないと、全て無視してきた。
「記憶や名前がないと、整合性のあるなしを判断できないんだ。――だったのに、なんで君は自我を保てているんだい?」
「自我のありかについて。――禅問答でもかなりの難問だな。価値観の空虚さの一歩先、人類もまだ模範解答を出せていない、はずだ」
「そう、なのかい? 魔導師でもないだろうに、禅問答に詳しいなんて奇特な趣味だね」
可能な限り現実を再現しようとしているのか、呪力量は個人によって差異がある。
彼の呪力量はほぼゼロのため、気にしてはいないが。
「ちなみに、君の答えはなんだい?」
「知るか、どうでもいい」
ノータイムでの即答。
心底興味がないことがうかがえる。
「……普段ならそうだろうけど、今は緊急事態だよ。記憶や名前がないのに自我が保ててる理由、考えないの?」
「保ててるなら問題ないだろう? それに記憶と言っても、エピソード記憶がないだけ。意味記憶や行動記憶は残ってる。他にも心臓などの臓器に記憶が残るだの、魂に意思が宿るなどの眉唾話もある。理屈が欲しいならそれにすがればいいだけだろう」
それっぽいことの真偽など、どちらでも構わない。
少しでもありそう、と思えるなら勝手に納得するのが人間なのだ。
「君が常人でないのは分かったが、自我を支えている根幹はなんだい?」
真っ当な精神構造を持つなら、誰もが持つ疑問。
真っ当な精神構造を持つからこそ、次の瞬間には後悔をした。
「■を■りたい」
彼がそう口にすると、床に水が張った。
衝動のままに口を動かしただけ、ノドを鳴らしただけ、彼自身は何を言ったかを認識できないのに、世界が塗り替えられた。
「手を伸ばしても届かない■を■たい、そうだ、だからここにきた。■を■る手がかりがあるかも知れないと、赤い■を■にきた」
異界に多くを奪われてなお、彼の理は機能している。
命題にも近しい衝動を抱きながら、人であることを保ち続けている。
「異界を浸食するほどの渇望を、よく押さえ込めるね。正直ドン引きだ」
「この程度抑えられずして何が■■か。抑えられなければとうの昔に殺されている。殺されたら■を斬れないんだ。制御できるよう鍛錬して……――んん?」
異界に呑まれてなお、浸食し返すほどなのだ。
記憶と名前という、アイデンティティの根幹を失って、自我を保つような怪物なのだ。
認識に少しでも亀裂が入れば、自然と両方を取り戻す。
「――思い出した。思い出したけど……あぁぁ……」
顔を覆い、妙な鳴き声を上げる。
何やら恥じることがあったようだ。
「早いね、もう思い出したのか。なら、帰ることをオススメするよ。この異界はもうじき、ワタクシ達ごと滅ぶのだから」
女が指差すのは、入ってきたときと同じドア。
水が床を覆ったままだが、開け閉めに支障はないだろう。
「ああ、それは知ってるが……まだ帰るわけにはいかない。この異界というか、赤い破滅の成立を知るまでは帰れない」
「何のため、ってのは野暮だね。斬るためって言ってたし。というか、ここからなら斬れるだろう。君が浸食したことで、箍が外れかけている」
「世界の敵を殺してはいけない。だが殺さなければ世界が滅ぶ」
「矛盾しているし、君はそもそも異界を斬る気まんまんじゃないか。どう両立する気なんだい?」
「まだ分からん。だから知る必要がある。可能な限り全てを」
彼は全てを斬る剣を修めている。
それを用いれば異界を殺すことが出来るが、何も考えずに殺すことと変わらない。
ただ殺すだけでは見えないもの、認識できないものを探すために、異界に挑んでいるのだ。
「だから教えて欲しい。この異界の中心部へ行く方法を」
「君はむちゃくちゃを言うね。方法を教えたら、この異界を斬ってしまうんだろう? そうしたらワタクシ達の居場所がなくなってしまう。自殺することと同義のことを、ワタクシが教えると思うのかい?」
「どちらでも構わない。教えてくれないなら探すだけだからな」
じゃあ、訊くんじゃない、と続けることができなかった。
「だが、あなたが続けることを望んでいるとは思えない。俺との会話を楽しめるのであれば、この異界は生き地獄そのものだ。なにより、もうすぐ滅ぶと言っていたな。終わらせるなら責めて自分の手で、というのはアリだと思うぞ」
「見透かしたような物言いは改めた方が良い。バカにされていると感じるからな」
女は先ほどと同じように、ドアを指差した。
「そこから出て、先へ進みたまえ。強固な意思を持って先に進むと決めたのなら、きっとたどり着けるだろう。誰も拒まない世界なのだから」
「ありがとう、感謝する」
ドアに指をかけ、動きを止めた。
「そう言えば名乗っていなかったな。俺は――南雲悠太だ。あなたは?」
「死人に名前なんてない。演じるべき役の名前ならあるけど、生者には意味のないものだ」
それ以上、会話をすることなく部屋を出る。
悠太が廊下を歩くごとに、水面に波紋が広がる。足下から数十センチ、それが水面の範囲であった。
(早く、ナニカを見つけて帰らないと。現実の身体のこともあるが、時間をかけすぎれば天乃宮に何を言われるか)
悠太は、自身が異界に呑まれる経緯を思い返す。
共通テスト当日の朝、天乃宮香織からの連絡があったことから始まった。
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次回は、8月12日(水)1:00 を予定しております。
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