死人の声
目を覚まして最初に見たものは、知らない天井であった。
はて、ここはどこだ? と首を傾げてみるが、心当たりがない。というか、何も思い出せない。なぜここにいるのか、自分は誰なのか、など。
(まずは起きるか)
上半身を起こし、肩を回す。
肘を曲げ、手首を逸らし、指の節一つひとつを動かす。
(問題はないが、なぜ念入りに動かした?)
身体が覚えていただろう動作に驚きながら、流れに任せることにした。
記憶はなくとも身体が覚えているものがあるのなら、それが自分自身に繋がるはずだと。
衝動のままに動かすと、ベッドの上でストレッチを始めた。足をピンと伸ばし、つま先を抱えて身体を倒す。ぺたりとベッドに付くほど折れ曲がるので、身体の柔軟性はかなりのもの。何かしらスポーツでもやっていたのか、と考えて不満が出る。
(ベッドはないな。柔軟の意味がない)
寝具の上でやることが間違っていた。
適度な固さを持つマットのため、腰が沈み込むなどはない。だが、適度には沈む。ピンと伸ばさなければいけないのに、わずかでも沈むのはいただけない。
掛け布団を剥ぎ取ろうとしたが、妙に重い。
というより、身体が剥ぎ取るのを拒む。
(……おかしい。記憶喪失はこの際良いが、強制力的な力は何だ?)
見覚えのない天井や、記憶喪失は置いておこう。現実にありえる。
上半身と腕のストレッチをベッドの上でやるのも、良しとする。沈むのは不満点だが、寝起きなので許容範囲。
だが足を伸ばし身体を折り曲げるストレッチをベッドで行うのは、ありえない。
伸ばしていない足に掛け布団がかかったままなのも、よりありえない。
違和感がもはや確信の域に達したところで、乱入者が現れた。
「そんな、そんなっ! まさかと思ったけど、本当にっ!?」
「――■■■っ! 起きて、起きて大丈夫なのか!」
感涙した壮年の男女が、ベッドの縁に縋り付いてきた。
滂沱のごとく涙を流し、わんわんと捲し立てる様は、感動的な何かを目撃したのだろうと推測できる。身内であれば胸打つ何かがあっただろう。
だが、正体不明の強制力によってベッドに縛り付けられた身からすれば、冷めた目を向けるほかない。
「……どちら様ですか?」
「どちら、様……まさかっ! 記憶がないのか! そんな、そんな!?」
「いいの、いいのよ、■■■。あなたが無事であればそれだけで、記憶なんて些細なこと。そうでしょう、あなた」
「ああ、ああっ! そうだ、無事であればそれでいい。なにせお前は、三年も意識不明だったんだから」
そこから先、口を挟む余地がなかった。
始まったのは、いかにして自分が意識不明になったのか。その間、家庭内で何が起こったのか。目を覚ますのがどれほどの奇跡だったのか。などを事細かに、体感時間で三時間ほど。立て板に水を流すがごとく、止めどなく。
感情たっぷり、情感たっぷりな語り口は、街頭で演説すれば寄付金がたんまり入ったろうと思えてしまう。
そんなエピソードを一から十まで聞き終えて出た感想は、
「――与太話はそれで終わりでいいな」
であった。
最初の五分間こそ耳を傾けたが、それ以降は右から左に流した。
身体の自由が効くなら即離席する所だが、ベッドからの脱出はできない。仕方なく、三時間かけてのストレッチを実施していたのだが、語ることに夢中で何も言ってこない。
これで与太話以外の感想が出るなら、よっぽどの聖人か世間知らずのどちらかだ。
「与太、話……――なんてことを言うんだ■■■っ!!」
「そうよ、■■■っ! こんなにも、こんなにも愛しているのに!!」
「まあ、愛があること自体は否定しないが、お前達のそれは人間関係で向けるべき愛ではない。せいぜいが、人形かペットに対するものだろう」
一方的だったとしても、三時間も捲し立て続けるなど愛がなければできない。
普段は大人しいのに、好きなことには早口になる人種を思い出せば、当てはまるだろう。
「矛盾点なら色々あるが、下手なことを言っても響かないだろう。だから指摘するのは一つだけだ。矛盾も言い訳もなく答えられたなら、人に向けて良いものだと認めてやろう」
絶対に答えられない、という確信がある。
けれど、感情的には答えて欲しかった。どんな答えであろうとも、向き合って欲しいと願ってしまった。
「会話から二人は夫婦だと推測するが――なんで子供の名前が違うんだ?」
二人が止まった。
動きだけではない。表情も、感情も、人らしい何もかもが、止まってしまった。
「ハッキリ言って、名前だろう単語が意識できない。それを俺に向けていると推測するが、名称として認識できない。だが、口の動きは分かる。個人差はあるが、全くかすりもしない。読唇術は身に付けていないが、子音がまるで合っていないことは分かるし、そもそも音の数すら違う。――なぜだ?」
根拠のない想像になるが、名前どころか性別が違っていても驚かない。
というのも、二人の語る子供像がまるで違うのだ。共通しているのは昏睡していた点のみで、年齢も、好物も、よくした遊びも、勉強の出来も、何もかもが違っていた。
信じ込ませる気が本当にあるのかと、心配するほどの杜撰さ。
それが逆説的に、この世界が普通でないことを証明していた。
「答えないのであれば、ここまでです。俺はもう行きます」
話が終わった段階で、ベッドから降りれるようになっていた。
人形のように動かない二人は、彼が通り過ぎるとまた動き出した。
「今日も起きないんだね。早く声を聞かせてくれ、■■■」
「汗を掻いているわ、■■■。拭いてあげるから、少しガマンしてね」
誰もいないベッドの前で、パントマイムを始める。
投げ銭としてお札を出しても良いクオリティだが、二人にとっては芸ではない。本当に見えているし、触れているのだ。
「……死んだような目をしている、誰かに言われた気がするが、アレと比べればマシか」
二人が見ているもの、触れているものは今ではない。
過去だ。過ぎ去ってしまったナニカの中で生きている。
生者の定義が今を生きる者とするならば、過去に生きている二人は、死者と呼ぶほかにないだろう。
「――…………?、??」
ドアをくぐると、廊下に出た。
普通のことであるが、普通ではない。なにせ、家の廊下でなく、学校の廊下なのだ。
「ドアがない……後戻りはできない、か」
ドアノブをひねったままの手は、何も握っていない。
コンクリート製の廊下のど真ん中に立って、呆けているのに誰も注目しない。
普通の学校のように多くの生徒が談笑しているというのに、奇異な行動を取っている彼が見えていない。
「床も、壁も、窓も、ドアも触れる……人も肩にぶつかるし、俺を避けて通る……実体があるように思えるが、綺麗すぎる」
人が使う以上、建物は汚れるのだ。
新品だったとしても、一ヶ月もすれば汚れが目立つ。人が触れる箇所には皮脂や垢がこびりつき、砂や埃が積み上がる。掃除をしたとしても、取り切れない部分は必ずある。
だというのに、この学校には積み重ねが見当たらない。
新品のように綺麗なままだ。
「他と違うのは……――ここか」
何も書かれていないプレートが並ぶ中、ナニカが書かれている。
新品のドアが並ぶ中、一つだけくたびれている。
誇りの積み上がった床に踏み入りながら、ドアをスライドした。
「スゴいね、君。全く影響を受けずにここまでこれるなんて、本当に人間かい?」
「死人の声に耳を傾けてどうするんだ? 肉親ならまだしも、赤の他人のやるせなさに共感した所で百害あって一利なしだ」
「普通はやりきれないし、捨てきれないものだが――それが出来る誰かが来るのを望んでいたのは確かだ。歓迎するよ、見知らぬ生者さん。それとも後輩くん、と呼んだ方がいいかな? 少なくとも、生まれは君よりも古いからね」
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次回は、8月8日(土)1:00 を予定しております。
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