第36話穏やかな生活
いい考えが何も思いつかないまま、数日が過ぎた。
注意深くパティを観察すると、私と二人きりでいる時だけでなくジョゼットがいる時ですら私への不満を隠していないと分かった。
私への態度が、使用人として褒められたものではない。というだけでなく、私に不満があるのだとパティの目が言っているのだ。
私がジョゼットの怪我を治療し完治させてもこの態度なのだから、怪我の後遺症があった前回は更に不満が酷かっただろうに私にはその記憶がない。
パティの不満は、私自身の行いというよりも、元貴族になってしまったパティが侯爵家の令嬢の私をやっかんでいるというのが大きいのだと思う。
パティと私の身分差について、私がどうこうできることはないし、パティの境遇に私が遠慮するのもおかしな話だけれど、以前の私はパティは姉同然と言いながら所詮は使用人だと考え、彼女にも感情があるなんて思いもしていなかったから、彼女が私をどんな目で見ていてもその理由なんて考えなかっだろうし、そもそも気が付きもしなかっただろう。
以前の私ならあり得る話だ。
「お嬢様、今日のお勉強はそろそろ終わりにいたしましょうか」
「はい。ジョゼット先生ご指導ありがとうございました」
兄様が授業の後家庭教師にそう礼を告げているのをたまたま目撃した私は、同じようにジュゼットへお礼を言い始めた。
ジョゼットは私は使用人なのにと恐縮していたが、兄様がそうしているのを見た。それに毎日授業が楽しいのはジョゼットが先生だからだと言えば、受け入れてくれるようになった。
ただ両親に見つかればジョゼットが叱られるかもしれないから、お礼を言おうと決めた日にまず私は兄様に相談したのだ。
兄様が家庭教師にお礼を言っているのを見て、自分もジョゼットに言いたいと思ったのだと。
兄様は一瞬驚いた顔をして、その後どうしてと聞いてきた。
授業が楽しいから、ミルフィは馬鹿だけどジョゼットは怒らずに教えてくれるからありがとうって言いたい。そう言うと泣きそうな顔をしながら私の頭を撫でて許可してくれた。
今の兄様は、私を時々褒めて甘やかしてくれるから、私の心はその度に嬉しさに満たされる。
ジョゼットにお礼を言うのは、兄様からお父様へ話し許可をもらってあげると約束してくれた。
兄様とこういう会話をする度に、兄様は本当に五歳の子供なのだろうか、以前の兄様もこんなに大人びていたのだろうかと思う。
以前の兄様を思い出そうとしても、頭に浮かぶのは私に向け笑っているように見える表情を向ける兄様だ。
今私が三歳のミルフィとして兄様と話すようになって嫌になるほど理解するのは、前回の兄様は私を何とも思っていなかった。むしろ邪魔にすら感じていたのだろうということだ。
以前の私は兄様から声を掛けられたことも、兄様と手を繋いで歩いたこともない。
私が兄様に甘えようとしても、申し訳なさそうに勉強があるからごめんね。と言うのが常だった。
それでも私が理解できる程度に冷たい態度を取り始めた両親に比べたら兄様は私に親切だったから、兄様に愛されていると私は思い込んでいた。
今の兄様を見れば、それは違うと分かるのにあの頃の私は、兄様だけは私を愛してくれると信じていた。
「お嬢様、セドリック様がお庭でお待ちです。お茶を一緒にとのことでございます」
「お兄ちゃまが! 行ってもいいの?」
入室許可を取った後部屋に入ってきたパティからの知らせに、私は思わず大声を上げてジョゼットを見た。
最近兄様は体調が良い時に私を誘ってくれるようになった。
その時の兄様の体調によるが、絵本を一冊読んでくれるだけの時もあれば兄様の部屋で一緒にお茶の時間を過ごすこともある。
それは、とても幸せな時間だった。
「勿論でございます。もう授業は終わりましたから、これからすぐにお庭に行かれて良いですよ。でも大声を上げて急に立ち上がろうとするのはお行儀としては如何ですか?」
ジョゼットが笑顔で注意するのを、私は大人しく聞いた。
「お行儀良くありません。お兄ちゃまがミルフィを待ってるって聞いたから、我慢できなかったの。お行儀悪くしてごめんなさい」
今私が使っている勉強用の椅子は、小さな体の私でも一人で座れる高さのものに変更されているし、テーブルも椅子の高さに合わせたものになっている。
大人のジョゼットでは立ったまま教えるのは大変な高さだから、ジョゼットは少し低めの椅子を私の隣に置いて腰かけながら授業をしている。
「急に立ち上がるのはいけないことです。お行儀も悪かったです」
「そうですね、気をつけましょうねお嬢様」
私が非を認め素直にそう言えば、誰も強くは叱らないと分かった。
ジョゼットも満足そうに頷いた後、次からは気をつけましょうねと締めくくった。
「パティ、お嬢様と一緒に行きなさい。私は奥様に今日の授業の報告に行ってくるわ」
毎日の授業の結果をジョゼットはお母様に報告する。
今の私は、読み書きと礼儀作法、この二つをジョゼットに習っている。
食事の作法は辛うじて教わっていたが、ペンの持ち方だけでなく礼儀作法も私はまともに教わっていなかった。
背筋を伸ばし椅子に座る、歩く。淑女の礼をする。というのを完璧に覚えるのは難しい年齢だとはいえ、全く教わっていないのと教わっているのにまだ上手く出来ないというのでは話が違う。
私は入学してから知ったことだが、普通貴族の子供は五歳になれば両親に連れられ茶会に出るようになるらしい。だからそれまでに見苦しくない程度には挨拶などが身に着いていないといけない。
以前の私は子爵夫人にろくな教育もされずにいたから、私の行儀は最悪で癇癪もよく起こしていたからかなり上の年齢になるまで茶会に出席なんてさせてもらえなかった。
両親は兄様だけを連れ出掛けていき、私は寂しく一人屋敷で過ごす。
その姿を見て、子爵夫人は怠け者で出来の悪い娘が恥ずかしくて外に出せないのだと笑っていた。
先生がジョゼットに変わった後当時を思い出したけれど、兄様が両親と出掛けた日は子爵夫人の仕置きが特に酷かった。
私が出来損ないだから置いていかれるのだと、私のことが恥ずかしくて他の家には連れていけないのだと延々と言われ続ける。
あの時間が辛く苦しくて誰かに助けて欲しかったけれど、私の出来の悪さを両親も呆れているのだと言われ続けていたから、苦しさを誰にも打ち明けられなかった。
「幸せだわ」
パティに手を引かれ部屋を出ながら、私は小さく呟いた。
以前の私に教えてあげたい。
兄様は本当は少し意地悪で、でも優しいのだと。
兄様と手を繋いで歩く庭、前回の私が癇癪を起こして踏み荒らした花壇には今は綺麗な花が沢山咲いていて、この間兄様は自ら花を摘み私に花束を作ってくれた。
以前の私はそんな幸せなこと、夫にすらされずに過ごしたというのに。
嬉しかったことはもう一つある。
兄様がくれた花を部屋に飾り、枯れていくのが寂しいと言ったらジョゼットはその中の一輪を押し花にして、私に綺麗なしおりを作ってくれたのだ。
今それは私の大切な宝物になり、私の机の引き出しに大切にしまってある。
今の私は毎日が幸せだ、以前の私は一度も知らなかった幸せを私は毎日感じている。
だけど今の幸せを噛み締め歩く私を、パティが冷ややかな目で見ているなんて私は気が付きもしなかった。




