第35話寝た振りをしていたら
ガスパール先生が帰っていって今日の分の授業を受けた後、ゆっくり考えたかった私は疲れたと言ってお昼寝をする振りしてベッドに潜り込んだ。
ジョゼットの授業はとても分かりやすく私はご機嫌で文字の練習をし、単語をどんどん教えてもらっている。
以前の私の記憶がある私が書き取りの練習を何度も繰り返すのはつまらないと思う時もあるけれど、幼いこの体で綺麗な文字が書けるようになるのが嬉しくて機嫌良く授業を受けている。
以前の私が、ペンの正しい持ち方を学んだのは入学してからだった。
周囲の人のペンの持ち方を盗み見て学び、綺麗な文字の書き方もそうやって学んだ。
私は夫人が私にまともな授業をしていないと気がついていなかったから、何年も家庭教師に学んでいたのに身に着いていなかったのだと自分を情けなく思っていた。
夫人が言う通り、私は生きる価値のない駄目な人間だと心の底から信じていた。
あの頃の私より今の私の方が、綺麗な文字を書いているかもしれない。
「お嬢様どうされたのでしょう。疲れたなんて、まだ診察を受けてほんの少し勉強しただけですよ。怠けすぎじゃないですか?」
「パティなんてことを言うの」
「またお母さんの、なんてことを言うのが始まった。はいはい私がいつも悪いんですよね」
「パティ!」
ベッドに潜り込み毛布を頭から被って寝たふりをしている私の近くで、パティはジョゼットに不機嫌そうな声で話している。
最近この声も聴きなれてしまった。
パティは私だけしかいないと、不機嫌さを隠そうともしなくなって来た。
私が言うことにパティは適当に返事をして、感情を隠さなくなったし不満そうな顔で見ている時もあるけれど、あの時だけじゃなく、ジョゼットと二人きりでも同じなのだと知って驚いてしまう。
「パティ、あなたが何を思っているのか分からないけれど。お嬢様はお勉強をされて診察も受けられた、それで幼い子なら疲れても仕方ないとは思わないの?」
「疲れ、お嬢様は診察を受けて勉強をほんの少ししただけで疲れたって言えるのだからいいわよね」
ジョゼットが叱っても、パティは態度を変えようとしない。
以前の私は知らなかったパティのこんな態度にも、今の私は慣れつつある。
「お母さん、私どうしても狡いって思ってしまう。お嬢様は狡いわ、贅沢な食事して呑気に毎日を過ごしているんだもの。そんなの狡いって思うのはいけないことなの?」
パティの声は沈んでいて、悲しんでいるのだと感じる。
でも、狡いと言われても、私にはどうすることも出来ない。
私がこの家の娘として日々を生きることも、パティが元男爵令嬢で今は平民のメイド見習いでしかない現実も私がどうこう出来るものではない。
私が動くことでどうにか出来るならしてあげたいとは思うけれど、それは無理な話だ。
「パティ、あなたは自分の現状を理不尽だと感じているのでしょうね。でも、その理不尽をお嬢様にぶつけるのは間違っているわ」
「そうかもしれません。私はもう貴族ではないのですから」
パティの声は何も納得出来ない。そう言っている様に私には聞こえた。
男爵家に生まれ育ったというのに、父親が亡くなってしまったせいで使用人として生きる未来しか無くなったパティは憐れだ。
パティの妹と同じ年齢の私が自由気儘に日々を過ごしているのを間近で見るのは、自分の境遇に納得出来ないパティには酷だろう。
それは私にも理解できるけれど、どうしようもない。
そもそもこの家には、貴族家の令嬢令息が大勢働いている。スフィール家は侯爵家なのだから、上級使用人の殆どが貴族家の三男、四男か令嬢たちになる。行儀見習いで来ている者もいれば下位貴族でずっとスフィール家に仕えている家の者もいる。
私は幼いから元貴族のジョゼットとパティしかついていないし、以前の私は人見知りが酷くて大人になってからも他の使用人が側にいなかったけれど、普通であれば侯爵家の令嬢で後に侯爵夫人になった私に平民が侍女でつくなんてことはありえない話だ。
つまり間違っているのはパティの方なのだ。
「貴族ではなくなったけれど、私はもっと勉強がしたかった。私だってほんの少し魔力はあるのだから、魔法の勉強をすれば使えるようになるはず。こんな幼いお嬢様が魔法を使いたいって気軽に言えるのに、私が言えば身分不相応だって言われてしまう」
「パティ、私たちはもう貴族ではないのよ」
そうかパティは、私が魔法を使いたいって言っているのすら不満なのだ。
パティは私と自分を比べて、私が狡いと思っているのだ。何もかも狡いって、そう妬んでいるのだ。
「そんなのお母さんに言われなくても分かってます。でも私だって貴族令嬢として教養を身に着けて結婚して男爵家を継ぐそんな未来があったわ。そう思うとやり切れないのです」
「パティ。どうしようもないことは存在するの。こうなるはずだったと未来を憂いても仕方がないと諦めるしかないこともあるのよ」
パティ達の現状を、私がどうこう出来る様なそんな権限はない。
私自身魔法を習いたいと思っているのに、それすら思い通りにならないのだから他人の人生なんて私が何か出来るわけがない。
「お母さんごめんなさい。私はお嬢様だけでなく、お母さんのことも恨んでしまう。お母さんの決断は間違いじゃないと分かっているわ。それでもあの時受け入れていたらって思う気持ちを止められないの」
「パティ、受け入れるって……あなた理解していたの? 理解していてそう言うの」
ジョゼットが驚いた様に言うけれど、何を受け入れていたらとパティは言いたいのだろう。
分からないけれど、ジョゼットはとても驚き悲しんでいる様に聞こえる。
「パティ、あなたずっとそう思っていたの。私が受け入れていれば良かったのだと」
「ええ、でもお母さんにはそんなこと出来ないって分かってます。私だって色々分かってるんです! だから今は無理でもいつかはちゃんとけじめをつけて、惨めな平民の使用人になります」
惨めな平民の使用人、平民でも侯爵家の令嬢に仕えられるなら十分だと考える者だって多いと思うのに、パティはそれでは不満なのだと驚いてしまう。
もし私付きが嫌だとお母様に文句を言ったとして、お母様は平民で子供のパティを自分付きにしようとはしないだろう。そうしたら成人前のパティがさせてもらえるのは下級使用人の仕事くらいだろう。
ジョゼットの治療をガスパール先生にさせることを許さなかったことを考えても、お母様はそんなに甘い人ではないと思う。使用人への線引きをきっちりとする人だから、私付きが不満だとパティが言えばきっとそうすると思う。
「私が大人しく我儘で贅沢なお嬢様にお仕えすれば、お母さんは満足なんでしょ!!」
それだけ言うとパティは部屋を出て行ってしまった。
乱暴に扉が閉まる音に、ジョゼットは深く息を吐く。
「パティ。ごめんなさい。あなたの未来を台無しにしてしまったのは私よ。あの人が生きていたらあの家を継ぐのはあなただったわ」
ジョゼットとパティが暮らしていた男爵家は、今パティの父親の弟が継いでいる。
父親が亡くなった時パティは幼過ぎたのだ。
下位貴族の家だとしても、次代が幼い。そんな理由で領主の座を空には出来ない。
領主は領地を治めるために必要な存在だから、それをたった数年とはいえ誰も治める人がいないまま管理に雇われた役人だけで治めるなんて出来ない。
だからパティの父親の弟が家を継ぐのは当然のことだし、家を継ぐ人間がジョゼットとパティを邪魔だと追い出してしまったのも仕方がない話だ。
普通であれば、領主の死後誰が跡継ぎになるか国に届けて承認を得ておくものだけど、多分パティの父親はの跡継ぎとして弟を指定していたのだと思う。
一度正式な跡継ぎを国に届けると、変更が難しい。
簡単に変更ができるのは、仮の跡継ぎとして届けていた場合だけだけれど自分の子供を仮の跡継ぎだと届けることは出来ない。仮として届けられるのは親族だけだ。
この国では女でも跡継ぎに出来ても、基本は嫡男が家を継ぐものだと考えられている。一度正式な跡継ぎだと娘を届けてしまうと、その後で息子が生まれても変更が出来くなる。だから大抵の家は息子が生まれず娘だけの場合は、仮で親族の誰かを届けておき、娘に領主の教育をしながら息子が生まれるのを待つ。
そうして娘がある程度育つか、息子が生まれるのを諦めてから正式な跡継ぎを届けるのだ。
領主の娘だったパティと妻が追い出されて弟が跡を継いでいることを考えると、パティの父親は自分の弟を仮の跡継ぎとしていた可能性が高い気がする。
そうでなければ、パティが幼くても簡単に追い出すことは出来なかっただろう。
「私があの話を受け入れていれば良かったのかしら、でもどうしても駄目だったのよ。ごめんなさい」
もし仮の跡継ぎの届がパティの父親の弟でされていたとしても、ジョゼットがもっと政略に長けた人間だったら今も男爵家にいることはできたのかもしれない。
正式な家庭教師が決まるまでの中継ぎとはいえ、彼女は高位貴族家の娘を教えられるだけの教養を持っているのは分かる。ジョゼットの生家も男爵家だったと思うけれど、しっかりとした教育を受けてきたのだと思う。
でもパティには貴族令嬢の教育は足りていなかったのだろうということも、見ていれば分かる。
ジョゼットは優しいし信用できる人だし家庭教師としては優秀、でも領主になり領地を治められるかといえば別問題だし、自分の娘の教育は上手く出来ていない気がする。
「嘆いてしても仕方がないわ。お嬢様がお休みの間に、明日のお勉強の準備をしておかなくちゃね」
ジョゼットは小さく呟きながら部屋を出て行った。
一人になった部屋で、私は考えていた。
ジョゼットとパティの未来、私の未来、兄様の未来。
考えても考えても、皆が幸せになる未来は思いつかなかった。




