第32話パティの本心
勉強の後お庭で少し遊んだ私は、疲れて部屋のソファーに横になりウトウトと微睡んでいた。
体に掛けられたふわふわの毛布を頭まですっぽり被り、クッションを枕に現実と夢の途中を漂っていて、意識はあるのに眠くて目が開けられない。
パティの不機嫌そうな声が聞こえてきたのは、もう眠ってしまおうと決めた時だった。
「ソファーで眠り込むなんて珍しいわ。お嬢様、少しお勉強しただけなのに疲れてしまったのかしら」
「文字を書く練習を一生懸命されていたから、きっとお疲れになったのでしょうね」
「あんな短い時間文字を書いただけで疲れて、行儀悪く眠り込んでも許されるの? お嬢様はいい御身分ね」
どうしたのだろう、パティは機嫌が悪いのだろうか。
パティのこの言い方は、まるで私に悪感情を持ってでもいるように聞こえてしまう。
「パティ、口が悪いわ。あなたは使用人なのよ言い方に気を付けなさい」
ジョゼットも気になったのかパティに注意しているけれど、パティはジョゼットの注意何て気にもしていない様子で「はぁい」とだけ言った。
「ねえ、お母さん。お嬢様はさっき凄く怯えていたわね。みっともなく涙を流して謝っていたわ、そんなに子爵夫人はお嬢様に酷いことをしていたの? 私にはそう思えないけど、お嬢様が大袈裟なんじゃないのかしら、お嬢様って甘えん坊だし我儘だからほんの少し注意されたのも我慢できなかったんじゃだけなのではないかしら」
パティとジョゼットの声が聞こえてきて、だいぶ意識が浮上してきたけれど、目を閉じたまま耳を澄ませる。
パティは私がジョゼットから授業を受けている間、壁際に立ち控えていた。
彼女の目には突然泣いて謝り出した私はどう見えていたのだろう、今の言い方だと私に呆れている様に見える。
「パティ、気をつけなさいと言ったそばから。自分の立場を弁えなさい」
「だって、お母さんの授業であんな風に泣かれたらお母さんが悪いと思われてしまうじゃない。お嬢様は文字が上手く書けなくて癇癪起こして泣いただけなのに」
パティの言い分も分かるけれど、私は癇癪を起こして泣いたわけじゃない。
「お嬢様のせいでお母さんが悪く言われるなんて、それでお母さんが旦那様に叱られでもしたらどうするの。お嬢様の癇癪のせいなのに、お母さんが悪く言われるのよ」
それは違うと言いたいけれど、今のパティに何を言っても素直に聞いてくれない気がして私は寝た振りを続ける。
ジョゼットも同じように考えているのだろうか、私の癇癪だと。
彼女にもそう思われていたのだとしたら、とても辛い。
「それは違うわ、パティ」
私の心配が聞こえたかのように、ジョゼットはパティを否定した。
「お嬢様のあれは癇癪を起したわけじゃないのよ。私は旦那様にお話を伺っただけで詳しくは分からないけれど、子爵夫人は授業と言いながらまともな指導はせず、お嬢様が少しでも失敗すれば体罰を行っていた様なの」
ジョゼットはお父様からすべて聞いていたわけではないのだろうか、それでも先ほどの私の無様な姿を癇癪のせいだとは思ってはいなかったようだ。
「謝罪させ自分は悪い子だ駄目な子だと言わせて、何度も謝罪させながら体罰を。こんな幼いお嬢様に」
「体罰?」
「お嬢様はね、さっき上手く文字が書けなかったから、私がお嬢様を叱るのではないかと怯えたのだと思うの」
ジョゼットが理解してくれていると分かって、私は内心ホッとする。
「ペンの握りかたすらお嬢様は知らなかったご様子だったわ。お嬢様は同じ年のスザンヌと違いお食事中上手にフォークやスプーンをお使いになれるのに、そんなお嬢様がペンの握り方を覚えられないはずかないわ」
そこでジョゼットは、深く息を吐く。
「お嬢様がペンをあんな握り方をしていたのは、まともに教わっていなかったからだと思うのよ」
僅かな時間でジョゼットはしっかりと私を見ていた様だ、それは嬉しいけれど違う心配も出て来てしまった。
これは今後言動を気を付けないと、変な子供だと思われてしまうかもしれない。
私は兄様みたいに賢くないのだから、大人だった私のまま反応したらおかしく思われてしまう。
「好き嫌いが多いからお食事の時そちらばかり気にしていたけれど、そういえばお嬢様は食事の作法はおかしくないかも。スープをこぼしたりもしないわ。スザンヌは未だにスプーンの持ち方がおかしいけれど。まあ、スザンヌってちょっと馬鹿だものね。お嬢様は我儘で偏食ばかりだけど、スザンヌはなんでも食べてしまう馬鹿だものね」
「あなたは本当に、そうやって幼い子を見下すのは良く無いといつも言っているのに」
ジョゼットは呆れた様にパティに言うけれど、パティは人を見下す様な人だっただろうか。
私だけでなく、自分の妹をこんな風に馬鹿だ馬鹿だと言う人だったのだろうか。
「授業を嫌がっていたのは体罰のせい。それなのに私達はそれに気が付かずに嫌がるお嬢様を夫人に預けてしまっていたのよ。夫人から部屋を出るよう命令されていたなんて言い訳にもならないわ。そのせいでお嬢様はあんなに怯えられる様になったのですもの」
ジョゼットは沈んだ声で話し続ける。
「幼いお嬢様を何度も打つなんて正気とは思えないわ」
「でも、本当にそんなに何度も打っていたのかしら? それならどうしてお嬢様のお体に痕がないの。お風呂でお体を清める時お怪我をされていないか、いつも下女と一緒に見ていたけれど、小さな傷も赤くなっているところも無かったわ。本当は体罰と言っても強い力で行っていたわけではないのではないのよ。お嬢様が大袈裟に怯えていただけではないかしら?」
パティの指摘に、確かに私がお風呂に入る時に傷があるなんてパティや下女に言われたことはないと思い出す。
「スザンヌも甘えが酷いけど、お嬢様はスザンヌよりも酷い甘ったれだし、皆に可哀相と言われたくて大袈裟に言っているんじゃないかしら」
「パティやめなさい」
「そうよきっとそうだわ! だって子爵夫人はいつもお嬢様の我儘に振り回されて困っていらっしゃったもの。セドリック様ばかり旦那様たちが気にされるから、お嬢様は自分を見て欲しくて、だから……」
パティは子爵夫人の味方の様に聞こえるけれど、それは私の体に傷が一つも無いからどの程度の暴力だったか理解していないせいだろう。
子供の柔らかい肌だ、服の上からとはいえあれだけ強い力で何度も打たれ叩かれていたら、腫れて赤くなってもおかしくない。それなのに傷が無かったのだから、パティの言うとおり本当はそんなに強く打たれてはいなかったのだろうか。
幼い子供だから、弱い力で叩かれていただけでも恐ろしく感じただけなのだろうか。
「痕にならない程度に夫人は力を加減していたのかもしれないわね。……はあっ。でもね、パティ」
またため息を吐いた後、ジョゼットはパティと呼ぶ。
「はい」
「あなたは経験がないから、打たれる怖さを理解できないのかもしれない。でも大人の私だって手を振り上げられたら恐怖を感じるものよ。お嬢様のような幼い子供が大人にそれをされたら尚更よ」
ジョゼットは自分が打たれた経験があるのだろうか、それは誰にだろう。
ジョゼットがどんな風に生きてきたのか、以前の私も今の私も知らない。
ジョゼットは、いつも穏やかな声で穏やかな顔で私の側にいた。私が知っているのはそれだけだ。
「それは、そうかもしれないけれど」
「ただ打たれるだけではなく、幼い子供が大人に見下ろされ罵声を浴びせられながら誰も味方がいない場所で何度も何度も暴力を振るわれ続けたのよ。どれだけ恐ろしかったことか」
ジョゼットは私の気持ちを理解してくれていたのだ。
それだけで、私は救われた気持ちになる。
「恐ろしい?」
「そうよ。お嬢様は少し甘えん坊なところはあったけれど、素直で明るい方だったわ。今思えばよく癇癪を起こすようになられて我儘をおっしゃるようになったのは、夫人の授業が始まってからなのよ。その我儘だって、私達には授業が嫌だと言っていた程度よ」
「そうだったかしら」
「そうよ、後は夫人がお嬢様が授業の間我儘で困ると言っていただけ」
ジョゼットの言葉に、ジワリと目の奥が熱くなってくる。
私はジョゼットに酷い怪我をさせたというのに、そんな酷い目に合せた私を彼女はちゃんと見てくれていたのだ。
「でも、子爵夫人はいつもお嬢様は我儘で怠け者だって……とても旦那様の血を引いているとは思えないって」
パティはいつ子爵夫人と話していたのだろう? 疑問を覚えるけれど今彼女にそれを聞くことは出来ない。
「お嬢様のあの困った性格は、奥様そっくりだとも言っていたわ。ねえお母さん、奥様ってそういう方なの? 私子爵夫人に聞いたから知っているわ。奥様は気付け薬が手放せないくらい気が弱いんでしょ? それでも上位貴族の奥様ってやっていけるものなの?」
気付薬? そんなものお母様は使っていただろうか? そういえば以前の私を呆れて見ながら、お母様はいつも小瓶を持っていた気がする。
あれが気付け薬だったのだろうか、でも記憶に残るほど気付け薬って常用するものだろうか。
「なんてことを言うの! あなたまさか子爵夫人のそんな妄言を信じているわけじゃないでしょうね。お嬢様は確かに授業を嫌がっていたわ、でもその理由はもう分かったでしょう? あれは我儘じゃないわ、夫人の体罰を誰にも言うことが出来ずに、それでも誰かに気がついて欲しかったのよ!」
ジョゼットは私を庇ってくれるけれど、パティはジョゼットに向かってフンと鼻を鳴らす。
そのパティの態度はとても母親に向けているものとは思えない、パティってこんな子だったのだろうか。
幼かった私は気が付かなかっただけで、以前のパティも今と同じだったのだろうか。
「パティ! あなたはさっきから、反省なさい」
「だって私にはそう思えないんだもの、お嬢様が嘘を吐いているんじゃ……。だってお嬢様はこの家の……」
「パティもしスザンヌが同じ事をされていても、あなたはそんなに酷くなかっただろうと言えるの? 大人に理不尽な暴力を受けて泣いて怯える幼いスザンヌに、怖いなんて大袈裟だと、そう言えるの?」
「それは……そうですね。スザンヌがそうなっていたら私は心底夫人を恨んだと思います。いくら馬鹿で私の足を引っ張るだけのスザンヌでも、私の妹だもの」
含みのある言い方が何故か気にかかる。
パティは私をどうでもいいと考えている? それとも打たれていい気味だと思っているのだろうか。
「パティ、あなたはさっきから本当に。あなたは使用人でお嬢様は私達が仕える方なのよ。それを忘れないで」
「はいはい、分かりました。お嬢様はまだたった三歳、少しの我儘や甘えはあって当然なんだと思わないといけないんですね。それで私が嫌な思いをしても、それは仕事だから仕方が無いことだと」
「パティ、あなたがお嬢様位の頃はもっともっと我が儘だったわ。スザンヌは一人で部屋にいる時間が多いせいか大人しすぎるのが心配だけれどね。あなたときたら……ああ、今はそんな話をしている場合じゃないわね」
ジョゼットの大きなため息を、パティは「私がすべて悪いんですよね。お母さんは私が悪いと反省すれば満足なんですよね。はいはい私が悪かったです」と流してしまう。
こんな彼女を私は知らない。前回私はパティと姉妹の様に仲が良かったと思うけれど、私はパティの使用人としての顔しか知らなかったのかもしれない。
「お嬢様はいいわよね、好きな時に林檎の果汁を飲みたい、お菓子が食べたいって好き放題にして、飽きたらそれを私にくれる時もあるけれど、お嬢様にはそれはいらないものを捨てただけ」
「パティ、またあなたは」
「スザンヌはいつも一人の部屋で留守番、私は遊んであげることすら出来ない。絵本も持ってないから大人しく部屋にいるしか出来ない。お嬢様は戯れに私に絵本を読めって命令できるのに」
パティは私に不満を持っている? こんなパティの気持ちを私は知らなかった。
「スザンヌをこの部屋に連れてきたら駄目なの? この部屋の窓から見える景色はとっても綺麗なのよ、あの子に庭のお花を見せてあげたいわ」
「皆さんが気遣ってくれるお陰でたまに裏庭で遊ばせてくれているのだから感謝しなければいけないわ。いつも一人で部屋にいるわけではないのだから……ね?」
「裏庭なんて、物干しの近くで遊ばせてもらえるだけよ。花壇もなにもない殺風景なところじゃない。このお屋敷に敷地は広いのに、自由に出歩けるのは僅かな場所だけなのよ」
住み込みの使用人の中には夫婦で子供がいた人もいたけれど、その子供が昼間どうしていたかなんて分からない。
ジョゼットの口振りだと、スザンヌは日中一人で部屋にいて二人が来るのを待っているのだろうか? それでもたまに裏庭に出て遊んではいるようだ。
王都内にあるこの屋敷の敷地は広くて、私の部屋の窓から綺麗に整えられた庭が見える。それ以外にもお母様が好きな花を植えた場所や東屋などもある。でもそこは使用人が好き勝手歩いていい場所ではない。
「お父様が亡くならなければ、私達だってお嬢様と呼ばれていたのに」
「パティ」
「ごめんなさい。でも、時々悲しくなるの。お嬢様は狡いって思っちゃうの。綺麗なドレスに沢山のリボン、贅沢な食事やお菓子に新鮮な果物を絞った飲み物、私の手に入らないものばかり」
「パティ、黙りなさい」
「羨ましいの。妬んじゃ駄目だと分かっていても、本当は私達だってと考えてしまうの。ねえ、お嬢様は子爵夫人が言っていた通り我儘で嫌な子供なのよね? そうじゃなきゃ私、私は……」
パティの声は、あの時の声と同じだった。
ジョゼットが怪我をして、でも私に守れなかった母が悪いのだと謝罪するしかなかった。あの時の声と同じ。
諦めと怒り、そして悲しみが混ざった声を聞いているのが辛い。
自分ではどうしようもないのだと分かっているのに、それが辛くてたまらない。
以前の私も、こんな風にパティに妬まれていたのだろうか。




