第31話初めての授業は
「お嬢様、本日より私がお嬢様の家庭教師を務めさせて頂くことになりました。若輩者ではございますがどうぞよろしくお願い申し上げます」
「ジョゼット、ジョゼット先生ね!」
初めての授業は、先日と同じ蝶の間で行われることになった。
蝶の間は隣の小部屋からこの部屋の様子を見られる仕掛けがされている。つまり私達のことをお父様か誰かが見ているということだから、気を抜いてはいけない。
だから緊張した様子のジョゼットに、よろしくお願いしますと言った方がいいのか一瞬悩んで、先生と呼んで終わりにした。
「まあお嬢様先生だなんて、私は……」
「だってミルフィの先生になってくれたんでしょ? 違うの?」
「……いいえ違ってはおりません。では私ごときが恐れ多いことですが、授業の間だけは先生とお呼びいただけますか、お嬢様」
ジョゼットは穏やかに微笑みながら、それでも少し躊躇いを見せてそう告げる。
ジョゼットは若輩者と自分について謙遜したけれど、臨時とはいえ私の先生をしても良いとお父様が許可を出す程度の教養はあるのから謙遜なんて必要ない。でもそんなことを今の私が言えるわけがない。
ただ自分を若輩者と言いたくなるジョゼットの気持ちも分かる、ジョゼットは家庭教師が出来るような勉強はしてこなかっただろうし、私と夫人がどんな関係だったのか知っているだろうから上手く教えられるか不安もあるのだろうし、お父様がどんな授業をするか見ていると分かっていたら不安だけでなく緊張もするだろう。
それでも知らない大人を怖がっている私の為に家庭教師を引き受けてくれて、私は嬉しくてたまらなかった。
「分かったわ。教えてもらう時だけジョゼット先生ね」
「はい。それ以外は今まで通りジョゼットとお呼びください」
「ジョゼット先生、ジョゼット先生、あのね、ミルフィね」
お礼を言いたい。それだけは言いたいと声を上げる。
「ジョゼットが先生になってくれて嬉しい。凄く凄く嬉しい。ありがとうジョゼット先生、ジョゼット先生は怖くないのよ」
「まあ、お嬢様」
「だって知らない人はまたミルフィを叩くかもしれないでしょう?」
するりと本音が零れ落ちた。
ジョゼットは不安だろうけれど、私だってそれ以上に不安なのだ。
ジョゼットとの授業がもしも上手く行きすぎたら、お父様は新しい家庭教師を雇おうとするかもしれない。
その人が兄様でなく出来の悪い私の家庭教師に雇われたことを不満に思わずに、ちゃんと私の授業をしてくれるという保証はない。
だからせめて、私がもう少し他の大人を信用できるようになるまで、ジョゼットに先生でいて欲しかった。
「お嬢様?」
「ミルフィはお兄ちゃまと違うから、お兄ちゃまみたいにミルフィは立派な子じゃないから、駄目な子だから怒られるのも叩かれるのもミルフィが悪いって分かってるの。でもね、叩かれるのは痛いし怒られるの悲しい」
あまり長く話すのは良くない、でもこれは言っておかなければならない。
「お嬢様は駄目な子などではありませんよ」
「ジョゼット先生は、ミルフィに教える価値もないって言わない?」
「言いません」
「ジョゼット先生は、ミルフィはスフィール侯爵家の恥って言わない? 生きてる価値ないって言わない?」
「絶対に言いません。お嬢様、生きている価値が無いと言われていたのですか」
ジョゼットはそこまで知らなかったのか、それとも夫人が言わなかったのかどちらか分からないけれど、多分お父様が見ているだろう今しか、夫人から言われたことを話す機会はないだろう。
夫人との最後の授業の後、お父様に言った覚えはあるけれど、どこまで話したか覚えていない。でも私は子供なんだから繰り返し話してもいいだろう。
「うん、いっぱい言われたのよ。兄様は素晴らしいけれど、ミルフィは駄目なんですって。女の子に生まれただけで価値がないのに、馬鹿で出来損ないだからどれだけ勉強しても無駄って、生きてる価値もないって。だから叩かれるのも怒られるのも当たり前なんですって」
「なんてことを」
「私のために叱って叩くんだって。でもお父様たちに叱られていることを知られるのは恥ずかしいことなんだって。絶対に誰にも言ってはいけないって。……でもミルフィが怒られていたのお父様もう知っているの。ミルフィのことお父様嫌いになったかな。馬鹿な子なんていらないって思ってるかな」
ここまで言うつもりはなかったのに、私の口から不安が零れ落ちてしまう。
「そんなことありませんよ。お嬢様、旦那様はお嬢様を心配されても嫌うなんてありません」
「本当? じゃあ、ミルフィがお勉強したら頑張ったねって言ってくれる?」
「勿論です」
「ミルフィ、頑張ってお勉強する!」
あまりにジョゼットが心配そうな顔をしているので、私は張り切る振りをする。
本当はジョゼットも私に勉強を教えるのは無駄だと言い出すのではと、不安なのだ。
「はい、お勉強を始めましょう」
「はい、ジョゼット先生!」
笑顔で頷くと、ジョゼットはホッとしたように小さく息を吐くと私の隣に腰をかがめて立ち私の顔を覗き込む。
「お嬢様、どの程度お勉強をされていたか覚えていらっしゃいますか?」
「どの程度?」
質問されると予想していたけれど、素直に説明するのはおかしいだろうから、首を傾げとぼけながら私の目の前に置かれた紙の束を見下ろす。
勉強用に使っていたらしい紙の束には文字らしきものが書かれた跡はあるけれど、意味のある単語は一つも書かれていない。
文字らしく見えるものはあるけれどこれは何かを教えられ書いたものではなく、実はこれには裏がある。
私も思い出したばかりだが、ミルフィは夫人から行儀作法以外は何も習っていなかった。
夫人は「これを見本に書きなさい」と一瞬だけ私に手本を見せた後ですぐにそれを隠し、もう覚えただろうと無理矢理私に文字を書かせる。
でも三歳児のミルフィがそれで手本通り書けるわけがない。でも上手く書けないミルフィに、なぜ書けない。怠けているのかと夫人は怒るのだ。そうして定規でミルフィを叩くのが常だった。
紙の束には夫人に見せられた文字の形を何とかして思い出し、手本通りに書こうと必死になっていたミルフィの努力の跡が見える。
ポタポタとあちこちにインクの雫が落ちていて、ぐちゃぐちゃの線がわからないなりに文字を書こうとしていたのだと私には分かる。
授業の最初にそれを命令され、その後は夫人の気が済むまで謝罪させられて叩かれて怒鳴られ続ける。
それがミルフィが受けてきた授業だ。
叩く理由と、授業らしきものをした形跡を残すために使われたのがこの紙の束なのだ。
「お嬢様?」
「あの、あのね」
私はどう説明するのが正解か分からずに、俯いてしまう。
三歳のミルフィは文字が読めないし、書けない。
でも今の私は、以前の私の記憶があるし記憶だけでなく知識も受け継いでいるから治癒魔法が使えるし、文字も当然読める。
文字が読めるのはパティに絵本を読んでもらった時に、しっかり文章を目で追えたからそれで確認出来た。
以前の私は本を読むのが苦手だったけれど、さすがに幼児向けの絵本程度なら問題なく読める。
それでも今のミルフィなら、それはできない。絶対にたった一つの単語すら読めないし書けないだろう。
だって教えられていないのだから。
「文字はお読みになれますか?」
「文字、う、うん?」
夫人はどこまで話しただろうか?
実際には彼女は殆んど授業らしいことをしていないと、正直に話しているのだろうか。
私はなんて答えるのが正解なのだろう。
「お嬢様、これはお読みになれますか?」
テーブルの上に出されたのは、林檎の絵の下に林檎と書かれた物だった。
「林檎」
私には読めても幼いミルフィにこの文字はやはり読めないと確信しながら、絵で林檎と判断して答える。
私の心の底で、幼いミルフィが知らない読めないと動揺しているのだ。
「はい、ではこちらは」
「うさぎ」
うさぎの絵の下にうさぎの文字だからそう答える。
その後何枚かやり取りが続いた後、文字だけの紙がテーブルの上に乗せられた。
「こちらは如何でしょう」
「えーと」
書いてあるのは、走るという文字だった。
今までは物の名前だったのに、急に難易度が上がって文字を見て、ジョゼットの顔を見る。
「ではこちらは」
今度は文字だけで、林檎だ。
だけどはっきり分かる、幼いミルフィはこの文字を習っていない。
先ほど以上に幼いミルフィが心の奥底で文字が分からないと困惑し、分からないって言ったら怒られてしまうと怯え始めたのを感じてしまい。体が震え始める。
「……」
「林檎です」
ぶつぶつと小さな声でジョゼットが呟いているのが聞こえてきた。
少しは教えていたと、夫人は話していたのだろうか。
でも、幼いミルフィが分からないと考えているのに、知っているとは言えない。
以前の記憶がある私が、答えてはいけないのだ。
「お嬢様、林檎の綴りは覚えていらっしゃいますか」
「綴り? 綴りってなあに?」
「先程絵の下に文字がありましたが、書けますか」
ジョゼットの質問に、また心の奥底で幼いミルフィが、知らない出来ないと怯え始める。
怒られる、また叩かれると怯える幼いミルフィが、私の体を震えさせるけれどそれを必死に堪えて私がまた首を傾げると、困ったような顔をしながらジョゼットが私にペンを手渡してきた。
「林檎と書いていただけますか? 間違えても大丈夫ですよ」
「林檎」
震えながらジョゼットからペンを受け取ると、なぜか私はペンを握りしめたままインク壺にペン先をずぼりと入れ、インクの滴が垂れるのもそのままに紙に林檎の絵を描いた。
わざとではなく無意識に、私はそうしていた。
林檎を書かなくては、追い詰められた幼いミルフィが苦し紛れに描いたのだ。
「お嬢様」
声を掛けられてビクリと体が震えた。
ジョゼットに声を掛けられるまで、私は躾られた犬が命令され芸をする様に、何も考えずにペンを動かしていた。
ふと紙を見れば、ポタポタとインクの雫が紙の束だけでなくテーブルの上にも落ちていた。
「お嬢様、上手に林檎の絵が描けましたね。では、この文字を真似して書いてみましょうか」
「文字? これ?」
林檎と書かれた紙を目の前に置かれて、私は震える手で文字を真似して書き始める。
無意識に持ったペンは、正しいペンの持ち方では無い。
持つと言うより握るが正しい持ち方で、左手を紙に添えることもしていないから文字を書いていくうちに紙に皺が寄っていく。
出来上がった紙には、辛うじて林檎と読めなくもない、いや林檎と書いたと分かるからこそ読める文字が書かれていた。
「ごめんなさい。上手に書けなくてごめんなさいっ。ミルフィは駄目な子です。ごめんなさいっ」
失敗だ、上手く書けなかった、文字の上ににじむインクの染みを見てすぐに謝り始める。
文字を見せられたら、形を覚えて間違いなく書かないといけないのに、それが出来なかった。
体が震えてしまって、ジョゼットの顔が見られない。
インクの雫が落ちると、それだけで叱られた。
ミルフィはペンの握り方もインクのつけ方も教えられていなかったけれど、インクの雫が紙に落ちると夫人に酷く叱られたのだ。それなのにテーブルにまでそれが及んでいたらどれだけ叱られるか分からない。
「お嬢様、どうして謝るのですか。正しく林檎と書かれていますよ」
「だって、先生が謝れって。ミルフィ上手く出来なかったから、いっぱい謝らないといけないのっ!」
恐怖心からなのか、心の奥底から幼いミルフィが出てきてしまう。
今すぐに謝らないと、椅子から下りて先生の前に跪いて許しを請わないと駄目だと思うのに恐怖で体が動かない。
「お嬢様、お嬢様の先生は私ですよ。私はお嬢様に謝れと命令しましたか?」
「してない?」
「ええ、しておりません」
「じゃあ、打たない? 打たないでミルフィ謝るから打たないで、叩かないで怒らないで。ミルフィ謝るからいっぱい謝るからお父様に駄目な子だって言わないで」
ジョゼットは私を打たないと理解しているのに、恐怖から聞いてしまう。ポロポロと涙がこぼれ落ちてしまう。
「勿論です。お嬢様を打つなど致しません」
ジョゼットは床に膝を付き私よりも目線を低くすると、私の手からペンを受け取りテーブルの上に置いた。
「お手は汚れていませんね」
「うん、インクついたら駄目なの。インクをつける悪い子は恥ずかしいからお仕置きされるの。いっぱい、いっぱい謝っても叱られるの」
手にインクを付けても、打たれる理由になった。
文字が掛けなくても、返事が遅くなっても、上手く謝ることが出来なくても、何をしても何を言っても叩かれて叱られたのだ。
「約束致します、お嬢様」
「ジョゼット」
ふわりと私を抱き締めると背中をゆっくり撫でながら、ジョゼットは「私はお嬢様を打ったり致しません。怖い思いをさせたり致しません」と誓ってくれた。
「ジョゼット、先生」
「はい」
「へへ。ジョゼットが先生なら怖くないよ」
ジョゼットにハンカチで涙を拭かれながら、恐怖が和らいでくるのを感じていた。
もう大丈夫、怖くない。
安心して良いのだと、幼いミルフィも私もようやく実感できたのだった。




