第20話授業の始まり
「お嬢様、私は外におりますので何かありましたらお呼び下さいませ」
「分かったわ」
蝶の間は以前の記憶通り、壁に大きな風景画が飾られていた。
私の記憶の中にある大きなソファーセットではなく、窓際に小さなソファーセット、中央にどっしりとした造りの丸いテーブルと四脚の椅子がありそのうちの一脚だけ子供用の椅子になっている。
私を抱き上げ椅子に座らせると、ジョゼットは部屋を出ていった。
私の気が散るからと、夫人はジョゼット達に部屋の外で待つようにいつも言いつけていて、夫人が部屋に来た時にジョゼット達が部屋の中にいると露骨な嫌味を言うのが常だったと部屋を出ていくジョゼットを見ながら思い出す。
あぁ、何となく思い出してきたわ。
そうよ、兄様との比較だけじゃなかった。
私の目の前、テーブルの上にあるのは羽ペンとインク壺。そして、数枚の紙。
文字の勉強だけだから、用意されているのはこれだけなのに長い定規が置いてある。
定規を見るだけで、幼いミルフィが私の心の奥で震え始める。
先生が来たら、そこから苦痛な時間が始まるのだと私は覚悟を決める。
「あら、お嬢様本日はお逃げにならなかったのですね」
「オーレンス子爵夫人、おはようございます」
「習う立場で座ったまま挨拶するとは、私が子爵夫人でしかないからと馬鹿にされているのですか?」
バシッとテーブルにあった定規を掴み、オーレンス夫人は私の膝を何度も叩く。
「ミルフィはこの椅子から一人で降りられなっ、ひっ」
「口答えをしていいなど、許可していませんよ」
「だって」
バシンとまた膝を叩かれて、痛みと恐怖でじわりと涙が滲む。
そうだ思い出した。
こうして叩かれるから、ミルフィは授業を逃げ出していたのだ。
「怠け者で勉強嫌いなミルフィーヌ様、セドリック様と比べものにならない、馬鹿なミルフィーヌ様」
何度も何度も叩かれながら勉強嫌いの怠け者と言われ続け、兄様と比べ続けていたミルフィはそれが辛くて授業から逃げ続けたのだ。
「ミルフィーヌ様、怠け者だとご両親に知られたくありませんよね」
「はい」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、涙を必死に堪える。
涙を流したら更に怒られると分かっているから、我慢するしかなかった。
それが当時の私は怖くて堪らなかったのだと、私は今はっきりと思い出していた。
「お父様達には言わないで」
「ならばいつもの様に、愚かな怠け者ですと十回言いなさい」
「ミルフィ、は」
この体は、夫人の暴挙に常に怯えていたのだろう。
夫人が手にしている定規が怖くて、夫人の方を向けない。
体が震えて涙が滲む、体の震えを私の意志では止められなかった。
「私の様な優秀な師をセドリック様から離してこんな出来損ないにつけるなんてねえ。本当に理解できないわ。侯爵様は人を見る目がないのね。あなたのお母様なんかを選ぶのですものね。あんな女を」
「お父様を悪く言わないで! お母様をあんな女なんて言わないで! ひっ」
反射的に叫ぶと、ぐっと片手で胸元を掴まれた。
そのまま、先生はもう片方の手で私の腕や足を何度も定規で叩き続ける。
「あんな女よ。私から侯爵様を奪った売女、唯一評価出来るのは愛らしく優秀なセドリック様を産んだこと、それだけよ! お前は母親そっくりな愚か者よ。さあ謝りなさい、自分は私から授業を受ける資格のない愚か者、怠け者で馬鹿で生きている価値もないのを謝罪しなさい!」
胸元を掴まれたまま、ガタガタと揺すられて罵られる。
何度も叩かれて、罵られて消えたくなる。
「何をしているっ! ミルフィを離せっ! お前達あれを拘束しろっ!」
突然ドアが開いて、お父様と護衛達が入ってきた。
咄嗟に離された手から、私は必死に逃げた。
椅子から滑り落ちる様に下りて、お父様の元へ走る。
「お父様っ!」
「離してっ!」
お父様に抱き締められて、私は泣きじゃくった。
あれは教育じゃない。
あれは指導でもない。
虐待、暴力、それだけだ。
「ミルフィ、ミルフィ可哀想に」
「お父様、ごめんなさいミルフィは、ミルフィは馬鹿なの、駄目な子なの」
幼いミルフィの記憶を、私が理解すると涙が溢れた。
「侯爵様、私は正しい指導をしていました。穢れた血を清める為に愚か者だと自覚を促そうとしただけです!」
「拘束して、地下室へ。子爵へもその旨伝えよ」
「畏まりました」
夫人を拘束して出ていく護衛達を見送り、私はやっと深く息をつく。
「ミルフィを呆れる? ミルフィを嫌いになる?」
「何を言っているんだ」
「先生が、ミルフィは愚かな怠け者だとお父様が知ったら、呆れて嫌いになるって」
私ではなく、幼いミルフィがお父様へ助けを求め、呆れないで嫌いにならないでと縋る。
私はこの頃授業なんて受けていなかった、最低限の挨拶も教えられず、ただ授業の度に叩かれ罵られ続けていた。
「なんだって?」
「お兄ちゃまは素晴らしいけれど、ミルフィは駄目な子なの。だから毎日、愚かな怠け者です。勉強が嫌いな怠け者ものです。先生ごめんなさいって謝って、それでも叩かれて怒られて」
謝り続けた。
愚かな怠け者だから、そうしないといけない。
使用人にも誰にも知られてはいけない、知られたら呆れられてしまうから。
誰にも話してはいけないと、言われ続けた。
「何て言うことだ」
お父様が呆然と私を見つめる。
「言わないと叩かれるの。ミルフィはだから逃げていたの。でも、先生が怖くて、叩かれるの痛くて」
「すまなかった。あの女の報告を信じて、私達はミルフィが我が儘を言っているんだとばかり」
抱き締められて、頭を撫でられて、以前の私を両親が抱き締めてくれなかったのは夫人の報告のせいもあったのだと気がついた。
あの夫人によって、私の性格がどんどん歪んでいったのだ。
夫人の手で、私は愚かで怠け者なミルフィーヌに育っていったのだと気が付いたのだ。




