第19話気紛れのおこない
あぁ、思い出した。
階段から落ちたあの日お父様へお願いしようとしていたのだ、先生を変えて欲しいと。
だからどうしてもお父様に会わないといけなくて、焦っていたのだ。
ずっと授業が苦痛だったけれど、もう限界だった。
自分が馬鹿なのが悪い、それが一番悪いと分かっていても、毎回毎回怒られるのが辛くてたまらなかった。
だけど階段から落ちて、幼かったミルフィの意識はその衝撃で心の奥底に眠ってしまい、以前の私が体を支配してしまった。
元は一つで、記憶があっても本来なら成長に伴い気持ちも何もかも一つにまとまったかもしれない幼いミルフィと以前の私は、幼いミルフィが心の奥底に沈むことで以前の私の意識が勝ってしまったのだろう。
でも、時々幼いミルフィが顔を出してきて今の私の心を乱していく。
今がそうだ、幼いミルフィが怯えている。授業が怖い先生が怖いと怯えて泣いている。
嫌いな野菜を食べる時も、幼いミルフィが嫌だ食べたくないと嫌がるけれど、兄様に褒めて欲しい気持ちが嫌と言う気持ちより勝るから食べる努力が出来ていた。
でも、授業は嫌だと、どうしても嫌だ、もう怒られたくないと幼いミルフィが泣いているのだ。
「お父様とお母様には言わないで」
馬鹿だと教師に叱られているなんて両親に知られたら、呆れられてしまう。
ジョゼットがさっき私に向けて同情めいたことを言ったから、心の奥底に眠っていた幼いミルフィが甘えているのだと思う。ジョゼットになら自分の情けない姿を見られても大丈夫だと、信じているのかもしれない。
「お嬢様」
「言わないで、馬鹿だと先生に言われてるって知られたくないの、二人に呆れられちゃう。ミルフィ我慢するから先生に何度怒られても、ちゃんと授業受けるから言わないで欲しいの」
「畏まりました」
「ありがとう、ジョゼット。ミルフィのお願い聞いてくれて」
するりと言葉が出てくる。
これはどちらの言葉だろう。
幼いミルフィか、大人の私か。
両方なのかもしれない。
心の奥底に眠っていた筈の幼いミルフィの心は、私の中に少しずつ溶けて混ざり始めているのかもしれない。
「リンゴの果汁をお持ちしました」
ジョゼットとの会話が終わってすぐに、パティがワゴンを押しながら戻ってきた。
「お嬢様、どうぞお召し上がりください。私は用事を済ませて参ります。パティお願いね」
「うん」
ワゴンの上でパティは陶器の水差しからグラスに果汁を注ぐ。
ぽってりとした硝子製のグラスは、縁のところに薄く青色が付いていて綺麗だ。
私の子供達が成人になった頃は、薄い硝子のグラスが当たり前に使われる様になっていたし、お父様達は今も食事の時には薄い硝子のグラスを使っていたと思う。
多分だけど、この頃は高位貴族の家とはいえ、子供の使用する食器に薄い硝子のグラスは気軽に使えるものではなかったのかもしれない。
でも、以前は田舎臭く感じていたこの厚みのある硝子も、リンゴを絞っただけの素朴な飲み物には似合っている気がして落とさないようにグラスを両手で持って果汁を飲む。
「はぁ美味しい。ピーマンも甘かったらいいのに」
「お嬢様、そろそろお勉強のお時間ですからお急ぎください」
「うん、行く」
ぐずぐずしていたら、先生の機嫌が悪くなる。
私は決心して果汁を飲み干し、立ち上がりかけたその時ジョゼットが部屋に戻ってきた。
「お嬢様、本日の授業は特別に蝶の間で行う様、奥様からご指示がありました」
「蝶の間? どこ?」
「旦那様の書斎近くにあるお部屋でございます。普段は旦那様が商人等と商談をされる時に使用されています」
首を傾げた私が行ったことがないと気が付いたのだろう。ジョゼットがすかさず説明をする。
「お父様のお部屋の近く。遠いね」
ジョゼットの説明に納得した振りをして、私は内心首を傾げていた。
蝶の間に飾ってある絵は魔道具で、蝶の間の隣の部屋から魔道具越しに部屋の中の様子が見えるし音も聞こえるようになっている。
いつもは私の部屋の近くに授業を受ける部屋があるから、そこで授業を受けるし食事は自分の部屋で取る。
食事の作法の勉強の時は、食堂に行くけれどその他は一人で食事、ずっとそうだった。
今朝みたいに食堂に行って朝食をとるなんて、いつも寝坊していた以前の私はしたことがなかった。
ちなみに、私室に勉強用の机は置いてあるけれど、あれはほぼ部屋の飾りと化していて入学するまで使ったことはなかった。
「行こうジョゼット」
「はい」
「パティ」
「はい、お嬢様」
「果汁はもういらない。パティとパティの妹で処分して」
意外すぎたのだろう、パティは返事もせずに立ちすくんでいた。
でも、水差しの中には多分たっぷりと果汁が残っているだろう。
厨房へ下げさせれば、料理人の誰かが飲むのかもしれないけれど、どうせならパティとパティの妹にあげたいと思ったのだ。
「お嬢様、処分とは」
「ミルフィはもういらないと言ったの」
「それは伺いました」
「処分はおかしいの? じゃあね、パティにあげる?」
流石に飲み物を処分と言うのは酷すぎたかと、言い方を変えるけれど優しい言い方は慣れていない。
果物を絞った果汁は、貴族の女性が好んで飲むけれど町に暮らす平民には高級品になる。
果汁にして飲む位なら、食べた方がお腹が膨れていいという考え方らしい。
私はそれを教会へ慰問をしていて知った。
そもそも果物は平民には贅沢品だという、リンゴを一つ買うなら、芋を買う。
芋を買わずにリンゴを買っても、果汁にして飲まずに切り分け家族で分けて食べる。
では果物を育て売って生計を立てている者はどうかと言えば、高く売れる果物は余さず売り自分は安い芋を食べるのを選ぶ。
それが平民の暮らしだと聞いて、以前の私はつまらない生き方だとしか思わなかった。
「妹に頂いてもいいのですか?」
「パティ!」
「リンゴが好きなら、ここにある分飲んでいいわ」
「ありがとうございます!」
「いけませんお嬢様」
「他の人にはひみつよ」
三歳児にこんな知恵はあるだろうか?
でも、この二人にはもう取り繕うのも程々でいいのではないかと思い始めていた。
常時一緒にいるのだから二人に隠すのも限度がある。
「ひみつに出来る?」
「はいっ」
余程嬉しいのか、パティは笑顔で返事をする。
こんな気紛れの施しの何が嬉しいのか分からないけれど、喜ぶパティを見るのは気分が良かった。
これは大人の私の感想だ、幼いミルフィにはパティがなぜ喜んでいるのかすら理解できないと思う。
「お母様達にも料理人達にも秘密だから」
「全部は頂かずに、少し残して厨房に下げます」
「パティ、お嬢様に何て言うことを言うのっ」
ジョゼットが悲鳴にも似た声をあげパティを叱る。
いつもなら、パティはよくよく考えて言葉を選んで話している感じがするから、この発言一つからもパティの喜び具合が分かる。
以前の私なら、飲み残しを喜ぶなんてと内心馬鹿にしていただろう。
でもなぜか、今度もし機会があれば一緒に楽しみたいと考えてしまった。
使用人と雇い主の娘だけれど、姉の様に思っていた時もあったのだから。
あった? 最後は違った?
自分の記憶に疑問を感じて、俯いて考えるけれど思い出せない。
何か忘れているのかもしれない。
でも、その記憶は今は必要ではないのだろう。
「お嬢様?」
「いい子になるのよ、だからあげるのよ」
今までなら飲み残しだとしてもパティにあげたりはしなかったから、これもいい子になるからするのだと二人に説明する。
授業を受けるのもそうだ、授業を受けるのは憂鬱だけれど、決心したばかりで逃げ出せない。
逃げ出したらきっと兄様は、私を二度と信用しないだろう。
兄様の作り笑顔は、もう見たくなかった。




