第21話融合
気がつくと、暗い部屋に私はいた。
夢なのかもしれない。
はっきりとは分からないけれど、現実ではない気がした。
「怖いよ、怖い」
子供の声が聞こえて、私は周囲をきょろきょろと見渡して声の主を探す。
泣き声、怖いと言いながら泣いている、この声を私は知ってる。
「ミルフィ?」
名前を呼んだら、声が止まった。
「誰? お母様?」
怯えた声の主は、ミルフィという名前に確かに反応した。
泣いていたのは、やっぱり私?
「先生? ごめんなさい。ミルフィは悪い子なの、怠け者で勉強出来ない駄目な子なの」
私が何も言わずにいると、ミルフィは私を夫人と誤解して謝り始めた。
どうも幼いミルフィには、私は大人の姿をしているように見えているようだ。私を見て幼いミルフィはさらに怯えながら先生と呼ぶ。
「ごめんなさい。何をやっても駄目な子で、ごめんなさい」
謝り続ける幼い姿に胸が痛くなる。
何も悪くないのに。
幼いミルフィはそれでも私に向かい謝り続けている。
パティもそうだったと、謝り続ける幼いミルフィを見て思い出す。
以前の私の意識が、今の幼いミルフィの中で目覚めたあの日、パティはお母様に謝罪していた。
何も悪くないのに、むしろジョゼットは階段から足を滑らせたミルフィを助けてくれたというのに、ひたすらお母様に頭を下げ続けたのだ。
弱者は強者の理不尽に耐えなければならない。
強者はそれを理不尽だとも思わずに、それを弱者に強いる。
夫人が幼いミルフィにした様に、お母様がパティにした様にそれを強いて、弱者が従うのは当たり前だと気にもしないのだ。
「ごめんなさい。ミルフィは悪い子です。怠け者の悪い子です」
頭を庇う仕草をしながら、ミルフィが謝るのを見て以前の私の癖を思い出した。
それから夫人は私の腕や足だけでなく、頬を叩くこともあったのだと思い出した。
夫人に頬を叩かれた経験からなのだろう、私は誰かの手が私の顔の近くに近付けられるのが何より苦手だったし、手を差し出されるのも怖かった。
ダンスをする時、エスコートされる時に一瞬顔が強ばる。
親しくない相手ならダンスに誘われて私が躊躇しても、人見知りなのだろうと無様な私の行いを見ない振りをしてもらえたけれど、多分夫は気がついていた。
だから夫は私が夫に触れられるのが嫌なのだと、誤解していたかもしれない。
「ミルフィ、謝る必要はないのよ」
ミルフィの前にしゃがみこむ。
以前の私は三歳の頃に何があったかはっきりと覚えていないまま大人になり、年を重ねていった。
自分は努力しても無駄な無能だと、生きている価値なんてない愚か者だと思い込んでいた。
夫人はずっと私の家庭教師を続けていて、私にとって絶対的存在になっていた。
ある程度年を重ねていくと、怒鳴られることも定規で叩かれることもなくなった。
以前の私には彼女に叩かれたり叱られたりした記憶は残っていないのだから、もしかするとそれは本当に幼い頃だけだったのかもしれない。
叩かれる記憶の代わりに、私が夫人の事で覚えているのは、なにかにつけてため息を吐かれて出来が悪いと嘆かれたということだ。
私が入学し、夫人は私の家庭教師ではなくなったけれど、なぜか彼女はいつも私の近くにいた。
先生を夫人と呼ぶようになっても、夫人は私と二人きりの時には短い定規を持っていた。
私は夫人が定規を手にするだけで体が震え、夫人が時々コツコツとテーブルの上を爪先で叩く音にも震えた。
わけも分からず、私はそれらが怖かった。夫人は私の恐怖の対象だった。
夫人は私に向かい、私は出来損ないだとため息を吐く。
夫人は私に使用人は卑しい存在だ、平民なんて虫の様な価値しかないと私に言い続け選民意識を植え付けた。
そして私は侯爵家に生まれたのに、平民以下の出来損ないだと言い、それが周囲に知られたら蔑まれるのだと言い聞かせた。
夫人の言葉を私は信じていた、愚かで馬鹿な自分は夫人の言うことは正しいと信じるように躾けられていた。
だから誰にも自分の弱い所愚かな所を知られてはいけないと、例え夫にも気を許してはいけないとそう思い込まされていた。
甘えん坊で見栄っ張りで我儘な怠け者、それは確かにミルフィの中にあったのかもしれない。
けれど、夫人の授業で強い劣等感や差別意識を植え付けられなければ、もう少しまともな人間に以前の私は育つことが出来たのかもしれない。
ミルフィは我儘だった。
だけどミルフィの我儘は、誰かに甘えたいという思いだけでなく、自分を見て欲しいという思いがあったのだと思う。
夫人から「両親は私を愛していない」と言われる度に、ミルフィは両親に我儘を言った。
その我儘が叶えられることで、自分は嫌われていないと安心できたのだ。
大きくなってもその癖は変わらなかった。
我儘を言う度に、お父様はため息をつき「好きにしなさい」と許してくれた。
それが私に対しての呆れだと気がつきもせず、気が付いていてもその事実に気が付かない振りをしてお父様は私に甘いのだと思い込もうとしていた。
馬鹿な自分は勉強しても仕方ない。
自分の能力の低さとか容姿を夫人に貶され続けていた私は、それでも劣等感を誰にも知られたくなくて夫人に言われるまま流行りのドレスや髪型、高価な宝飾品を買い始めた。
見た目が悪いのだから、高価なドレスや宝飾品で着飾らないといけないのだと夫人に言われてそれを信じたのだ。
他人に誉められるのはドレスであり髪型や宝飾品であるのに、それを自分への賛辞だと思い込もうとした。
その賛辞が望んでいるものと違うのは心の中で理解していても、知らない振りをしていたのだ。
似合っていないのは分かっていて、結婚し社交を最低限しかしなくなってからは派手なドレスを着ることはなくなったけれど、似合わない宝飾品を買っては一人の部屋でそれを眺めて過ごした。
高価なそれらを持っていられる私には価値があるのだと、そう思うことで自分を慰めていたのだ。
「ミルフィ。可哀想な過去の私」
身体を小さくして泣き続けるミルフィを、手を伸ばし抱き締める。
「あなたは良い子よ」
ジョゼットを辞めさせないでと泣いたのは、私ではなく幼いミルフィの心だ。
勘違いしていたけれど、怪我を治したいと心から願ったのも幼いミルフィだ。
私は幼いミルフィのその思いを、自分の意思だと勘違いしたに過ぎない。
リンゴの果汁をパティにいらないから処分してと言って、飲み残しを喜ぶなんてと内心で馬鹿にしていたのが以前の私だ。幼いミルフィならそんな風には思わなかっただろう。
以前の私は選民意識を植え付けられていたから、私の飲み残しを喜ぶパティを馬鹿にしていたのだ。
でも幼いミルフィにまだ選民意識なんてないから、この子なら次はパティと一緒に飲みたいと、きっとそう思っただろう。
「私もいい子になりたいわ、あなたの様に優しい心で皆に接したい。今度は勉強も他の事も怠けずに努力するの。兄様を死なせない、私が守るの」
幼いミルフィの心が今私の中にあるから、私はそう思うのかもしれない。
以前の私にはなりたくないと、ああなっては駄目だと思うのだ。
「守る?」
「そうよ。だからミルフィ、私を助けてくれる?」
「助ける?」
「私は人に優しくしたいなんて考えたことすら無かったわ。使用人は例え悪くなくても私の機嫌を損ねたら謝るべきだと信じていたし、蔑んでもいた。だけどそれは違うって気がついたのよ」
お母様だって、使用人と自分たちを分けて考えている。
貴族として、この家の女主人としてその考え方は正しいのかもしれないけれど、以前の私はその正しさすらなく使用人を蔑んだ目で見ていた。
「悪くなくても謝るのは悲しいよ。ミルフィずっと悲しかったのよ」
「そうね、理不尽を強いる権利なんて誰にも無いわ。貴族の立場ではそうするべき時もあるけれど、でもすべてにおいて許されると思うのは間違いね」
以前の私は、間違えてばかりだった。
夫人から歪んだ思想を植え付けられて、自分には何の価値もないと思い込まされていた。
でも夫人の指導がおかしかった、歪んでいたと気が付いていたら違う人生を歩めたかもしれない。
そう、夫人のおかしさに気がついていれば、もしかしたら。
もしかしたら?
私は何かを思い出せていないのかもしれない、なにか重要なことを思い出せていないのかもしれない。
私は何かを間違えて、何かを失敗したのだろうか、それが分からない。
でも、今の私は以前のそれらを確認する術がない。
何を忘れていて、何をすれば良かったのか分からないけれど、今の私には出来ることがある。
「私が二度と間違いを犯さないように、私を助けてくれる?」
「助けるの? ミルフィ出来るかな」
「あなただから出来るのよ。私と一緒に生きてくれる?」
「ミルフィでも本が読めるようになる? お兄ちゃまのようになれる? お父様とお母様の様に立派な人になれるかな?」
「勿論よ。一緒に頑張りましょう」
「うん」
幼いミルフィと手を繋ぐ。
私に頷く幼い顔に微笑み掛けると、私達の意識は溶け始め、やがてひとつに混じり合った。




