9話:母
母は、毎朝同じ時間に起きた。
台所の窓のカーテンを半分だけ開け、湯を沸かし、二人分の茶を淹れる。一つを自分の前に、一つをグレハムの席に。グレハムが起きてくるのが遅くても、茶はそこに置かれて、冷めていった。
母は、週に二度だけ外に出た。近くの店で食べ物を買い、まっすぐ帰ってくる。それ以外の日は、家の中で掃除をし、繕い物をし、窓の外を見ていた。
名簿を数えた日から、グレハムは母を見るようになった。
これまで、母を見るということをしたことがなかった。母はいつもそこにいて、そこにいることが当たり前で、見る必要がなかった。けれど今、母は、自分の名簿の最後の一人だった。
そう思って見ると、母の顔は、思っていたより小さかった。
髪に、白いものが増えていた。目のまわりの皮膚が薄くなって、笑うと細かい線がたくさん走る。湯呑みを持つ指の関節が、少し太くなっていた。
母は、いつからこんな顔だったのだろう。
秋の終わりの夕方、母が押し入れを開けていた。
冬の布団を出そうとして、奥のものを動かしている。グレハムが手伝いに行くと、布団の後ろに、古い荷物が一つあった。
大きな背負い袋だった。布は硬くなり、紐は擦り切れかけて、口のところがきつく縛ってある。
「これ、なに」
グレハムが訊くと、母は少し黙ってから言った。
「お父さんが置いていったの」
「お父さんの、予備?」
「あなたのよ」
母は、袋を見ずに言った。
「あなたが大きくなったら、って。あの朝、あの人が玄関に置いていったの。自分の荷物と、もう一つ」
グレハムは、袋を見た。一度も開けられたことのない袋だった。中に何が入っているのか、母も知らないのかもしれなかった。
「渡せなかったのよ。渡したら、あなたも行ってしまうと思って」
母は布団だけを引き出して、袋をまた奥へ押しこんだ。
その夜、母は珍しく、父の話をした。
食卓で、茶が冷めかけていた。母は湯呑みの縁を指でなぞりながら、ぽつりと言った。
「あの人が出ていく前の晩ね、初めて、あの人の夢を見たのよ」
グレハムは、顔を上げた。
「十年一緒に暮らして、一度も見たことがなかったのに。その晩だけ、見たの。あの人が玄関に立っている夢。起きたら、本当に玄関に荷物があった」
母は、少し笑った。笑うと、目のまわりに細い線が走った。
「だから、止められなかった。止めても行くんだって、分かったから」
グレハムは、何も言えなかった。
母は、ずっと彼の夢に出てこなかった。父も、出ていく前の晩までは、母の夢に出てこなかった。
そばにいる人は、夢に出てこない。そばにいる人が夢に出てくるのは、離れるときだ。
彼はそれを、仕事の言葉で、頭の中の帳面に書き留めた。書き留めて、それが自分にとって何を意味するのかを、考えないようにした。
母は、ほとんど誰にも会わずに生きてきた人だった。
グレハムは、それにも気づいた。母の口から、友だちの名前を聞いたことがない。親戚の話も、昔の仕事の話も。週に二度の店と、この家と、父と、グレハム。母の世界は、それで全部だった。
母の名簿も、きっと長くはない。そう考えかけて、彼は考えるのをやめた。
母もまた、外が怖かったのだ。
自分の怖さを、母から受け取ったのだと思っていた。けれど母もまた、誰かから受け取ったのかもしれない。怖さは、そうやって手から手へ渡されていく。布団の横で額を撫でる、冷たい手から。
グレハムは、自分の部屋に戻った。
夢に、父が来た。
「旅に出なさい」
父の後ろの靄の中に、背負い袋が二つ、見えた気がした。
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