8話:名簿
船乗りの話を読んでから、何日かたった夕方だった。グレハムは初めて、自分の名簿を数えた。
最後の頁を読みこんだ夜に、数えかけて、やめた名簿だった。
夢に出てくる顔を思い浮かべて、指は一本で足りると思った。
足りなかった。二本だった。
父と、母。
三十二年の人生で、彼が生身で会い、その顔を見た人間は、その二人だけだった。この家で生まれ、この家から一度も出ていない。忘れてしまった顔さえ、どこにもないはずだった。
学校には行かなかった。医者に会ったこともない。配達の人の顔も知らない。部屋のカーテンは、いつも閉めてあった。窓の外を通る人の顔を、彼は見ないようにして育った。見てしまえば、その人が外の世界の誰かとして、自分の中に住みつく気がしたからだ。
父と母。それで全部だった。
そして父は、毎晩、夢に来る。顔のまま。目尻の皺の一本まで、はっきりと。
残りは、母だけだった。
母は、一度も夢に出てきたことがない。毎日同じ屋根の下にいて、一度も。
グレハムは、画面の前で動けなくなった。
自分の名簿には、あと一つしか空欄がない。その空欄が埋まったら、自分はまもなく死ぬ。老婦人が何十年分もの顔を一晩ずつ見ていったように、自分も見ていく。ただし自分の場合、見る顔は、あと一つしかない。
母の顔を夢に見たら、終わりだった。
彼は、自分の計算をもう一度確かめた。
確かめるほどに、別のことが見えてきた。
出会う人が少ないほど、名簿は短い。名簿が短いほど、最後の一人は近い。人に会わないことは、人を守らない。むしろ、最後の夜を引き寄せる。
人に会わない奴ほど早死にする。広場の笑い声の一行が、ようやく糸の先までつながった。
外には危険がたくさんあるから、出ないで。
母の言葉は、彼を守るための言葉だった。布団の横で、冷たい手で額を撫でながら、母が祈るように言った言葉だった。その言葉に従った年月が、彼の名簿を、二人で止めていた。
旅に出なさい。
父の言葉は、無責任な言葉だと思っていた。家族を置いて出ていった人の、身勝手な言葉だと。毎晩聞かされるたびに、呪いのようだと思っていた。
けれど、計算の上では、それが唯一の薬だった。
旅に出れば、人に会う。顔が増える。名簿が伸びる。最後の夜は、遠ざかる。
父は毎晩、薬の名前を言いに来ていたのだ。
グレハムは、立ち上がった。
廊下を歩いて、玄関まで行った。
扉は、六つの朝と同じ扉だった。取っ手に手をかけると、冷たかった。
この扉を開ければ、外に人がいる。顔がある。一人でも顔を見れば、名簿は三人になる。
分かっていた。計算は、正しかった。
けれど、手が動かなかった。
扉の向こうの白さが、まぶたの裏に浮かんだ。父の背中が溶けていった白さ。死ぬ夢の中で、動かない自分のまわりを流れていた白さ。
治る方法を知っている病人が、薬を飲めない。そういうことが本当にあるのだと、彼は知った。
グレハムは、取っ手から手を離した。
台所で、母が鍋をかき混ぜる音がしていた。
彼は、その音のするほうへ、戻っていった。
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