3話:伝聞の世界
ジャスミンの文章には、いつも街があった。
今いる街は、海がおかしいのです、と彼女は書いた。波打ち際の砂が、全部、砕けた硝子でできているんです。歩くと足の下で小さな音がして、光が鳴っているみたいに聞こえます。拾い上げると角が丸くなっていて、手を切ることはありません。何百年も波に撫でられて、硝子は硝子のまま、やさしくなったのだそうです。
布の市場の話もあった。通りの両側に、天井から地面まで布が垂れていて、風が吹くと街ごと波打つ。売り手は布の向こうにいて、顔が見えない。値段は、声だけで決まる。
階段しかない街の話もあった。坂ではなく、階段。家の玄関も、店の入り口も、全部階段の途中にある。住んでいる人の脚はみんな驚くほど丈夫で、年寄りほど速く上る。
子どもの頃に父が枕元で話してくれた場所のほかは、グレハムは、世界のほとんどを彼女の文章で知っていた。
講義で地理は習った。地図も見た。国の名前も、山の高さも知っている。けれど、それは世界の骨組みのようなものだった。そこに肉をつけ、音をつけ、匂いをつけたのは、ジャスミンの文章だった。
不思議なことに、彼女は街の名前を一度も書かなかった。
どこにいるんですか、と訊いたことがある。
名前を書くと、地図の上の点になってしまうので。点じゃなくて、街のままで覚えていてほしいんです。
だからグレハムの中の世界には、名前のない街がいくつも浮かんでいた。硝子の浜。布の市場。階段の街。どれも、地図のどこにあるのか分からない。分からないまま、彼はそこを何度も歩いた。目を閉じて、彼女の文章をなぞって。
夢では、歩けなかった。
夢の中の父の後ろは、相変わらず靄だった。ジャスミンの街を思い浮かべて眠っても、夢は硝子の浜を描いてくれない。聞いた話は、見たことにはならない。夢は、その区別にひどく厳しかった。
知り合って二年目の冬の夜、グレハムは初めて、それを頼んだ。
写真を見せて。
送ってから、しばらく画面を見ていた。返事は来なかった。眠る前にもう一度見ても、来ていなかった。
返事は、朝になって届いた。写真はついていなかった。
代わりに、新しい街の話が書いてあった。屋根の上に畑のある街。家と家のあいだに板が渡してあって、子どもたちは地面に降りずに、屋根から屋根へ走っていく。夕方になると、どの屋根からも煙が上がって、街全体が湯気の中に沈む。
写真のことには、一言も触れていなかった。
グレハムはその文章を三度読んだ。それから、検索の窓に、彼女の名前を打った。
画面が、小さな白い花で埋まった。
星の形の花だった。五つか六つの細い花びらが、まっすぐに開いている。一輪だけの写真もあれば、垣根を覆いつくすほど咲いている写真もあった。蔓が伸び、葉が重なり、そのあいだに白い星が無数に散っている。説明には、香りの強い花だと書いてあった。夕方から夜にかけて、特に香るのだと。
グレハムには、香りは分からなかった。画面は、匂わない。
彼女がくれた言葉の中で、検索できたのは、名前だけだった。
彼は長いあいだ、その白い花を見ていた。
それから、彼の習慣が一つ増えた。
ジャスミンの顔を思い浮かべようとするたびに、彼は花を見た。どんな顔なのか、どんな目をしているのか、想像しようとしても、うまくいかなかった。何年分もの文章はあるのに、顔だけがない。その空白に、白い花を置いた。
置いてみると、少し落ち着いた。
夜、眠る前に花の写真を一枚開いて、しばらく眺めてから灯りを消す。それでも夢に、彼女は来なかった。花も来なかった。何百回眺めても、画面の中の花は、夢の中までは来てくれなかった。来るのは、靄の中の父だけだった。
「旅に出なさい」
父は言った。グレハムは、白い花のことを考えていた。
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