2話:靄
三十を過ぎたグレハムの仕事は、他人の夢を読むことだった。
十年ほど前から、眠っているあいだの夢を記録する機械が、少しずつ家々に入りはじめていた。額に細い帯を巻いて眠ると、朝には枕元の画面に、夜のあいだに見ていたものがぼんやりと映る。音はない。像は粗く、ほとんどは揺れる光と影でしかない。それでも、夢に出てきた人の顔だけは、粗い画面の中でも不思議とはっきり映った。人々は面白がって、自分の夢を記録し、短い文章を添えて、夢を書きこむ広場に載せた。
広場には毎日、何万という夢が流れこんだ。グレハムはそれを読み、分類し、研究所へ送る。空を飛ぶ夢、歯が抜ける夢、試験に遅れる夢、死んだ人に会う夢。分類の箱はいくつもあって、どの箱にも入らない夢は、彼の手元に残った。
母は、この仕事を喜んだ。
「研究ね。人の役に立つ研究」
グレハム自身も、毎晩記録をつけていた。
彼の夢には、決まりがあった。
顔のある人は、ほとんど出てこない。出てくるのは、父だけだった。父は毎晩、どこか遠い場所に立っている。砂の丘の上だったり、船の並ぶ港だったり、石の階段の途中だったりした。どれも、むかし父が枕元で話してくれた場所だった。父の顔は、はっきり見えた。目尻の皺の一本まで、六つの朝に見たままだった。
けれど、父の後ろは見えなかった。
砂の丘も、港も、階段も、父の足元の少し先から、白い靄に溶けていた。グレハムは、そのどれも見たことがない。画面で写真を眺めたことならある。けれど、何度か眺めたくらいのものを、夢は描いてくれなかった。夢が描けるのは、本当に知っているものだけらしかった。だから父はいつも、靄の中にぽつんと立っている、一つの顔だった。
「旅に出なさい」
父は言い、グレハムは黙っていた。
父のほかに、夢には靄が出てきた。
人の形をした靄だった。顔のあるはずの場所には何もなく、ただ白いものがゆっくり渦を巻いている。それが、声で喋る。広場で知り合った誰かの声だった。画面越しに声を聞いたことのある相手は、夢の中でこうして靄になって現れ、とりとめのない話をして、また消えた。
顔を知らない人は、顔のないまま出てくる。夢は、正直だった。
母は、夢に出てこなかった。
毎日同じ食卓につき、同じ廊下ですれ違い、同じ屋根の下で眠っているのに、母は一度も、グレハムの夢に現れたことがなかった。不思議だとは思っていた。けれど、その理由を確かめるのは、少し怖かった。
そして、もう一人。
靄にすらならない相手がいた。
広場で知り合って、もう六年になる。きっかけは、彼女の夢日記だった。記録の像を一つも載せない、文章だけの夢日記だった。毎日同じような夢ばかりが流れてくる中で、その日記だけは、顔が多すぎた。
市場で布を売る老人。渡し船の船頭。宿の窓から手を振る子ども。毎晩の夢に、グレハムの知らない人が何人も出てきて、その一人ひとりの顔が、細かく書いてある。どの箱にも入らないので、グレハムはそれを手元に残し、そのうち、残すだけでは足りなくなって、短い言葉を送った。
あなたの夢には、どうしてこんなに顔が多いんですか。
返事は、翌日に来た。
旅をしているからだと思います。会う人が多いので。
それから、二人は言葉をやりとりしてきた。ほとんど毎日。長いときも、短いときもあった。
けれど彼女は、写真を送ってきたことがない。声を聞かせてくれたこともない。届くのは、いつも文章だけだった。
だから彼女は、夢に出てこない。顔のない靄としてさえ。顔も声もない相手を、夢は、どんな形にもできないらしかった。
顔も、声も知らない。グレハムの手元にあるのは、彼女の文章と、名前だけだった。
ジャスミン。
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