1話:二つの声
出会った人が全員、夢に出てきたら、人は死ぬ。
これは、そのことを確かめた男の話だ。彼が生涯に出会った人間は、三人しかいない。
グレハムが六つになった年の、春の終わりの朝だった。
玄関に父が立っていた。背中に大きな荷物を背負い、紐を肩に食いこませていた。グレハムは廊下の端から、その背中を見ていた。
父は、若い頃に世界じゅうを歩いた人だった。けれど母と暮らしはじめてからは、どこへも行かなかった。夜になると、グレハムの枕元で、砂の丘がどこまでも続く土地や、船のひしめく港や、石の階段ばかりでできた町の話をしてくれた。話してくれるだけで、自分が出かけることはなかった。
その父が荷物を背負っているのを、グレハムは初めて見た。
父は振り向いて、しゃがみこんだ。グレハムの目の高さに、父の顔が来た。目尻に細い皺のある顔だった。笑うと、その皺が深くなった。
「世界にはたくさん秘密が眠ってる」
父はグレハムの頭に手を置いた。大きくて、乾いた手だった。
「だから、たくさん旅をしなさい」
父は立ち上がって、扉を開けた。
扉の向こうは白かった。朝の光が強すぎて、そこに道があるのか庭があるのか、グレハムには見えなかった。一度も外に出たことのない目には、扉の向こうは、ただの白さでしかなかった。その白い靄のようなものの中へ父の背中が入っていき、扉が閉まった。
台所で、母が皿を洗う音がしていた。母は見送りに出てこなかった。
その夜、母はグレハムの布団の横に座った。灯りを消さず、しばらく黙って、グレハムの髪を撫でていた。
「外には、危険がたくさんあるの」
母の声は低くて、震えていなかった。何度も練習した言葉のように聞こえた。
「車がある。病気がある。悪い人がいる。行ったきり、帰ってこられなくなる場所がある」
母の指が、グレハムの額の上で止まった。
「だから、出ないで。おうちの中で、たくさん勉強して、研究をして、たくさんの人の役に立ちなさい。外に出なくても、人の役には立てるから」
グレハムは頷いた。母の手が、冷たかったからだ。
眠ってから、グレハムは初めて、自分が死ぬ夢を見た。
どうやって死んだのかは覚えていない。ただ、夢の中の自分がもう動かないことと、それを上から見下ろしている自分がいることだけが分かった。動かない自分のまわりには何もなく、白い靄が音もなく流れていた。
目を覚ますと、まだ暗かった。グレハムは布団の中で、自分の手を握ったり開いたりした。動く。生きている。それを確かめても、胸の音はなかなか静まらなかった。隣の部屋から母の寝息が聞こえて、それが聞こえるあいだは、大丈夫な気がした。
グレハムは、この家で生まれた。取り上げたのは父の手だったと、ずっと後になって母から聞いた。
それから六年、母は彼を一度も外に出さなかった。父が連れ出そうとしたこともあったが、母が首を振ると、父はそれ以上何も言わなかった。グレハムの部屋の窓には、いつも厚いカーテンが引いてあった。
父がいなくなってからは、母が止める必要もなくなった。グレハムのほうが、玄関に近づかなくなったからだ。
出るな、と毎日言われたわけではない。母はあの夜の言葉を、二度と繰り返さなかった。繰り返す必要がなかった。グレハムの中で、あの言葉は、母の冷たい手と、死ぬ夢と、一つに縫い合わされていた。玄関の扉を見るたびに、その向こうの白さを思い出した。父の背中が溶けていった、あの白さを。
学校には行かなかった。母が役所に書類を出し、教科書が家に届いた。母が先生になり、やがて画面の向こうの講義が先生になった。講義は、声と文字だけだった。熱を出せば、母が薬を買ってきた。荷物は玄関の前に置かれ、配達の人が去ってから、母が扉を細く開けて取りこんだ。
グレハムは、扉の向こうの誰とも、顔を合わせなかった。
父は、帰ってこなかった。手紙も来なかった。どこへ行ったのか母は言わなかったし、グレハムも訊かなかった。訊けば、母の手がまた冷たくなる気がした。
代わりに、父は夢に来た。
あの朝から、ほとんど毎晩だった。夢の中の父は、いつもどこか遠い場所に立っていて、グレハムを見るとこう言った。
「旅に出なさい」
それだけを言って、父はいつまでもそこに立っていた。
グレハムは毎朝、その言葉を抱えたまま目を覚ました。そして、玄関の扉を見ないようにして、台所へ行った。
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