19話:夢
気がつくと、グレハムは浜辺に立っていた。
足の下で、小さな音がした。見下ろすと、砂が光っていた。砂ではなかった。砕けた硝子だった。角の丸くなった無数の粒が、波に洗われて、細かく鳴っていた。
光が鳴っている。
彼女の書いた通りだった。
夢は、聞いた話を描かない。何年も、硝子の浜は靄の向こうにあった。それなのに今夜は、足の下で光が鳴っていた。最後の夜だからなのか、隣に彼女がいるからなのか、分からなかった。
顔を上げると、海があった。
海は、緑だった。
深くて、少し暗い緑だった。波が寄せるたびに浅いところが透けて、底の硝子が光った。彼女の文章に、海の色は書かれていなかった。彼女は、色の名前を一度も書かなかった。だから、思っていたのとは違った。もっと明るいのだと思っていた。
少し暗い緑だった。
それが、嬉しかった。
違うということは、見ているということだったからだ。
隣に、彼女がいた。
昼間見たままの顔で。左半分の皮膚の波も、少し下に引かれた左の目の端も、細い眉も、薄い唇も、全部そのままで。夢の中の彼女は、靄ではなかった。一度も夢に来なかった人が、顔のまま、隣に立っていた。
「行こう」
彼女が言った。昼間聞いた、少しかすれた低い声で。
グレハムは、頷いた。
これが夢だということを、彼は知っていた。最後の夢だということも。遠いところで、記録機が低く唸っているのが聞こえた。その音のさらに向こうに、自分の手を握っている手があった。
知っていて、歩きだした。
二つ目の街は、布の市場だった。
通りの両側に、天井から地面まで、布が垂れていた。赤い布だった。明るい赤、深い赤、熟れた果実のような赤。風が吹くと、街ごと波打った。赤い波の中を、二人は歩いた。
布の向こうに、人はいなかった。
どの街にも、人はいなかった。顔のない靄も、一つもなかった。最後の頁に書いてあった通りだった。最後の夢には、靄が出てこない。出てくるのは、顔を知っている人だけ。
だから、街には二人しかいなかった。
三つ目の街は、階段だった。
どこまでも続く石の階段の両側に、家の扉が並んでいた。扉の一つ一つに、黄色い灯りがともっていた。小さな、温かい黄色。グレハムが息を切らすと、彼女が振り向いて笑った。右の頬と左の頬が、違う形で動いた。
グレハムは、階段の景色を、ほとんど覚えていなかった。
見ていたのは、彼女の顔だった。
四つ目の街では、屋根から屋根へ渡った。板の上を歩くと、足元で、知らない畑の葉が揺れた。
日が、傾いてきた。
空が、少しずつ深くなっていった。
「あと、三つ」
彼女が言った。
それから先は、歩く速さで過ぎていった。名前しか知らない街を、二つ通り抜けた。どんな街なのか、グレハムは何も知らなかった。知らないまま、彼女と並んで歩いた。
一度だけ、遠くに人影が見えた。
街外れの丘の上に、男が一人、立っていた。背中に大きな荷物を背負っている。顔は、遠すぎて見えなかった。
グレハムは、少しだけ立ち止まった。
それから、また歩きだした。確かめには行かなかった。
見るべきものは、隣にあった。
紙ナプキンの、七行目。空白の行。
最後は、僕が決めてもいい?
いいよ。
気がつくと、二人は、花の中にいた。
白い花だった。
どこまでも、白い花だった。星の形の小さな花が、低い垣根を覆い、蔓を伸ばし、地面を這い、見渡すかぎりの丘を埋めていた。花のあいだに、葉の緑が細かく重なっていた。夕暮れの光が、白い花びらの縁を、淡く染めていた。
匂いがした。
甘くて、重い匂い。今日、扉を開けたときに、胸の奥まで満ちてきた匂い。夕方から夜にかけて特に香るのだと、画面に書いてあった。本当だった。
画面で何千回も見た花。今日、垣根で、初めて自分の目で見た花。それが、見渡すかぎり、彼を囲んでいた。
「ここが、最後」
グレハムは言った。
「知ってる」
彼女が言った。
グレハムは、花の中に横になった。
背中に、葉と花の感触があった。柔らかくて、少し冷たかった。匂いが、全身を包んだ。
彼女が、そばに膝をついた。
見上げると、彼女の顔があった。
夕暮れの空を背にして、白い花に囲まれて、彼女の顔があった。左半分の波と、右半分のなめらかさと、少し下に引かれた左の目と、細い眉と。
何年も、この顔の代わりに、花を見てきた。
今、花と顔が、同じ場所にあった。
グレハムは、その顔を見ていた。
初めて見る顔だった。何度見ても、初めて見る顔だった。
空の色が、少しずつ引いていった。
葉の緑が、引いていった。夕暮れの淡い色が、引いていった。
白い花だけが、残った。
白い花の中で、彼女の顔だけが、最後まで残っていた。
グレハムは、見ていた。
最後まで、見ていた。
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