20話:声
夜明け前に、ジャスミンは、手の中の温度が変わったことに気づいた。
握っていた手は、まだ柔らかかった。けれど、さっきまでそこにあった温かさが、少しずつ遠くへ引いていくのが分かった。彼女は、手を離さなかった。離さないと、約束したからだ。
画面は、もう暗くなっていた。
カーテンの隙間が、少しずつ白くなっていった。
しばらくして、ジャスミンは、記録を最初から再生した。
画面に、靄が満ちた。
色のついた靄だった。最初は、深い緑。それが揺れて、波の形になりかけて、また靄に戻る。次に、赤。たくさんの赤が重なって、風に揺れているように見えた。それから、黄色の小さな点がいくつも、上へ上へと並んでいた。
街は、どれも、はっきりとは映っていなかった。
彼女が文章で書いた街だったからだ。彼は、その街を一度も見たことがない。聞いた話から作られた街は、機械の目には、色のついた靄にしか映らなかった。
けれど、靄の中に、ときどき、くっきりと映るものがあった。
顔だった。
ジャスミンの顔だった。
左半分のひきつれも、少し下がった左の目も、全部そのままで。昼間、改札の前で、川べりで、彼が見ていた顔が、靄の中から何度も浮かび上がった。正面から。横から。少し見上げるように。笑っている顔。何か話している顔。振り向いた顔。
記録のほとんどは、彼女の顔だった。
彼は、景色を見ていなかった。ずっと、彼女を見ていたのだ。
火傷のまま。正確に。
記録の終わり近くで、画面が、急に鮮明になった。
白い花だった。
画面いっぱいの、星の形の小さな白い花。花びらの一枚一枚、葉の重なり、蔓の巻き方まで、はっきりと映っていた。それまでの靄が嘘のように、くっきりと。
ジャスミンは、息を止めた。
機械がはっきりと残すのは、眠っている人が本当に知っているものだけだ。会ったことのある人の顔と、自分の目でよく見てきたもの。
彼は、この花を、何年も画面で見てきた。名前しか知らない人の顔の代わりに。そして昨日、垣根で、初めて自分の目で見た。何年も見つめてきた花が、昨日、本当に知っているものになったのだ。
花の中に、顔があった。
見上げる角度で。空を背にして。白い花に囲まれて。
隠していない、自分の顔だった。
花で顔を隠してきたのは、自分だった。それが私です、と言って花を差し出して、その後ろに隠れてきた。その花の中に、何も隠していない自分の顔が、映っていた。
色が、ゆっくり引いていった。花が白くなり、白い中に顔だけが残り、それから画面は、静かに暗くなった。
紙ナプキンの、七行目だった。
朝になって、廊下で足音がした。
扉が開いて、グレハムの母が入ってきた。
母は、布団の上の息子を見た。それから、その手を握っている見知らぬ女を見た。女の顔の、左半分を見た。
母は、叫ばなかった。
しばらく扉のところに立っていて、それからゆっくりと部屋に入ってきて、布団の反対側に座った。息子の額から、記録機の帯をそっと外した。髪を撫でた。六つの夜に、布団の横でそうしたのと、同じように。
「見ますか」
ジャスミンは言った。
母は、頷いた。
二人は並んで、記録を見た。緑の靄、赤の靄、黄色の靄。何度も浮かび上がる、ジャスミンの顔。そして最後の、白い花。
母は、一度も声を出さなかった。
ただ、白い花のところで、小さく息を吸った。息子が、外にいた。家の外の、空の下の、花の中に。
記録が終わると、母は立ち上がって、部屋を出ていった。
戻ってきたとき、母は、古い背負い袋を抱えていた。布が硬くなり、紐が擦り切れかけた、大きな袋だった。
「あの人が、置いていったの」
母はそれを、ジャスミンの前に置いた。
「この子が大きくなったら、って」
ジャスミンは袋を見て、それから母を見た。
母は、少しだけ笑った。目のまわりに、細い線がたくさん走った。
「世界にはたくさん秘密が眠ってるんですって」
母は言った。
ジャスミンは、袋の紐を握った。
記録は、自分の画面に写した。どうするかは、自分が決める。川べりで、そう約束していた。
玄関を出ると、垣根の花が匂った。
朝の光の中で、白い花が、昨日と同じように咲いていた。機械には残らなかった匂いが、ここにはあった。
ジャスミンは、一瞬、立ち止まった。
自分がこれまで出会った人の顔を、数えかけた。旅の先々で会った人たち。何百人か、何千人か。
数えるのを、やめた。
鞄から紙ナプキンを出して、七行目に、一つの言葉を書いた。花の名前で、自分の名前だった。
それから背負い袋を肩にかけて、駅のほうへ走りだした。
列車の窓から、朝の町が流れていくのが見える。
私は、紙ナプキンの一行目の街へ向かっている。膝の上に、古い背負い袋がある。中に何が入っているのかは、まだ見ていない。
鞄の中には、あの人の最後の夢がある。これ一つでは、きっと誰も信じない。だから次の街で、次の誰かの最後の頁を探す。あの人が家から一歩も出ずにやったことを、私は歩いてやる。
列車の揺れの中で、少し眠る。
夢を見る。
どこかの港の、石段の上に、誰かが立っている。こちらを見て、何か言いかけている。
顔を知らない人は、顔のないまま夢に出てくる。あの人が確かめた決まりだ。
なのに、その顔は、靄ではない。はっきりしている。
出会ったことのない顔だった。
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