18話:夜
川のある町を出たのは、すっかり暗くなってからだった。
もう少しだけ、と言ったのは、グレハムのほうだった。二人は川沿いの道を、灯りが一つずつともっていくのを見ながら、何度も行ったり来たりした。暗くなると、すれ違う人の顔は見えなくなった。それが彼には少しありがたいのだと、ジャスミンは気づいていた。
グレハムの家に着いたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
駅から家までの道を、行きの彼は足元しか見ていなかった。だから帰りは、ジャスミンが彼の手を引き、彼が角に来るたびに方角を言った。家の近くまで来ると、もう道を訊く必要はなかった。垣根の匂いをたどればよかった。闇の中で、白い花がぼんやりと浮かんでいた。匂いは、昼間よりも濃かった。
玄関の扉を、彼は静かに開けた。家の中は、暗かった。
「母は、もう寝てる」
彼は小声で言った。
「父が出ていってから、母は薬を飲まないと眠れないんだ。朝まで、起きない」
ジャスミンは、靴を脱いだ。
グレハムは、大きな古い靴を、靴箱の奥に丁寧に戻した。
廊下を歩いた。床が、ところどころ軋んだ。この廊下を、彼は生まれてからずっと歩いてきたのだ、とジャスミンは思った。この軋みの一つ一つを、彼の足は知っている。
彼の部屋は、狭かった。
壁一面に、本が積んであった。机の上に、画面が三つ。窓には、厚いカーテンが引かれていた。閉めきった部屋の空気は少しこもっていて、紙と、古い布の匂いがした。
ここから毎日、言葉が届いていたのだ。七年間。この窓を、一度も開けずに。
彼は台所から湯呑みを一つ持ってきて、水を入れ、そこに花を挿した。机の端に置くと、狭い部屋に匂いが広がった。
それから、引き出しから記録機を出した。額に巻く細い帯と、枕元の画面に繋ぐ線。彼は慣れた手つきで、それを整えた。毎晩やってきたことなのだ。
「眠ったら、ここに映る」
彼は、画面を指した。
「最初は、何も映らない。眠りが深くなると、光が出てくる。夢が始まると、形が出てくる」
「分かった」
ジャスミンは言った。声が普段通りに出たことに、自分で少し驚いた。
グレハムは、布団に横になった。
ジャスミンは、布団の横の床に座った。画面が、膝の前にあった。
彼が額に帯を巻いた。それから手を伸ばして、彼女の手を取った。
彼の手は、思っていたより冷たかった。指が細くて、少し湿っていた。
「離さないでいてくれる?」
彼が言った。
「離さない」
ジャスミンは言った。
しばらく、二人とも黙っていた。机の上の湯呑みの花が、暗がりの中で白く浮かんでいた。
「ジャスミン」
彼が、名前を呼んだ。
声で呼ばれたのは、初めてだった。七年間、画面の上でだけ、彼女はその名前だった。
「なに」
「今日、外に出てよかった」
「うん」
「花の匂いを、知らないまま終わるところだった」
「うん」
「君の顔を、知らないまま終わるところだった」
ジャスミンは、答えなかった。答えたら、声が普段通りでなくなる気がした。
彼は、彼女の手を少しだけ強く握った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
彼の呼吸が、少しずつゆっくりになっていった。
握った手から、力が抜けていった。けれど、離れはしなかった。
画面は、しばらく暗いままだった。
一時間ほどたった頃、画面の真ん中に、小さな光が灯った。
ぼんやりとした、白い光だった。それが少しずつ広がって、画面全体を、靄のようなものが満たしていった。
形は、まだなかった。
ジャスミンは、画面を見ていた。彼の手を、握ったまま。
厚いカーテンの向こうで、垣根の花が匂っていた。閉めきった窓を通して、それでも、届いていた。
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