16話:旅程
川べりに、古い石段があった。
二人はその一番下の段に、並んで座った。目の前を、川がゆっくり流れていた。水面に、午後の光が細かく砕けていた。
グレハムは、川を見ていた。
見えた。
列車の窓から見た景色は靄のようだったのに、川は見えた。水が流れていく方向。岸の草が水に浸かって揺れているところ。小さな魚が一瞬だけ跳ねて、輪が広がっていくところ。
隣に彼女がいるからかもしれなかった。
改札の前で長く下を向いていたあと、ジャスミンは顔を上げて、少しだけ笑った。右の頬と、ひきつれた左の頬が、違う形で動いた。それから、歩きましょう、と言って、先に立った。グレハムは、その背中についていった。外で誰かの背中についていくのは、生まれて初めてだった。
「何から話せばいいのか、分からない」
ジャスミンが言った。
「七年分、話したのに」
「じゃあ、街の話を」
グレハムは言った。
「硝子の浜の話を、声で聞きたい」
ジャスミンは少し驚いた顔をして、それから、話しはじめた。
彼女の声で聞く街は、文章で読んだ街と、少し違っていた。
文章には書かれていなかった間があった。思い出しながら話すとき、彼女は少し上を見る。浜の砂を手ですくう仕草をする。光が鳴るの、と言うとき、本当に何かを聞いているような顔をする。
布の市場の話をした。階段の街の話をした。屋根の上の畑の話をした。グレハムが知っている街を、一つずつ、彼女は声でなぞっていった。
知っている話なのに、初めて聞く話のようだった。
日が少し傾いた頃、グレハムは言った。
「行く順番を、書いてくれないか」
「順番?」
「君が行った街を、二人で回るとしたら、どの順番がいいか」
ジャスミンはしばらく彼の顔を見ていた。それから鞄の中を探って、紙ナプキンを一枚取り出した。ここへ戻ってくる途中、乗り換えの駅で朝ごはんを食べたときの残りだった。ペンで、そこに書きはじめた。
一行目。二行目。三行目。
グレハムは、それを横から覗きこんだ。
街の名前だった。
七年間、彼女が一度も書かなかった名前が、紙ナプキンの上に、彼女の字で並んでいった。少し右上がりの、細い字だった。硝子の浜のある街。布の市場の街。階段の街。屋根の上に畑のある街。それから、グレハムの知らない名前が二つ。
六行。
ジャスミンは、七行目にペンを置いたまま、手を止めた。
「最後は、決めてない」
彼女は言った。
「いつも、最後は決めないの。決めると、そこで終わっちゃう気がして」
七行目は、空白だった。
グレハムは、その空白を見ていた。
「最後は、僕が決めてもいい?」
ジャスミンは、彼を見た。
「いいよ」
どこにするの、とは訊かなかった。グレハムも、言わなかった。
それからグレハムは、自分のことを話した。外に出なかった年月のこと。名簿のこと。父と母の顔しか、知らなかったこと。
ジャスミンは、黙って聞いていた。
途中で一度だけ、グレハムの手に触れた。彼の手が、膝の上でずっと固く握られていたからだ。
「今日ね」
話の終わりに、グレハムは言った。
「家を出たら、垣根に、この花が咲いてた」
彼は、膝の上の花の束を持ち上げた。
「画面で、何千回も見た花だった。でも、匂いがあるなんて知らなかった。春になると、窓から甘い匂いがすることがあったんだ。ずっと。それが、この花だったなんて」
ジャスミンは花を見て、グレハムを見て、それから声を出して笑った。
改札で会ってから、初めての笑い声だった。少しかすれた、低い声だった。
「ずっと、扉の外にいたのね」
彼女は言った。
「私」
グレハムは、何も言えなかった。
川の水が、二人の前を、ゆっくり流れていった。
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