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14話:玄関

 玄関に、靴がなかった。

 

 当たり前のことに、グレハムはそのとき初めて気づいた。外に出ない人間に、外の靴はいらない。家の中で履く柔らかい履物が一足あるだけで、ずっとそれで足りていた。

 

 靴箱を開けた。

 

 母の靴が二足。店へ行くときの靴と、雨の日の靴。

 

 その奥に、もう一足あった。

 

 大きな、古い靴だった。革がひび割れて、紐は擦り切れかけている。けれど、手入れはされていた。誰かが、ときどき拭いていたのだ。

 

 父の靴だった。あの朝、父は新しい靴を履いて出ていった。これは、その前に父が履いていた靴だ。

 

 グレハムはそれを上がり框に置いて、足を入れた。

 

 ぴったりだった。

 

 後ろで、足音がした。母が、廊下に立っていた。

 

 母は、グレハムの足元を見た。父の靴を履いた足を。

 

 長いあいだ、母は何も言わなかった。グレハムも、何も言わなかった。出かけてくる、と言えば、母の手がまた冷たくなる気がした。

 

 やがて、母が口を開いた。

 

「夢を見たの」

 

 それだけだった。

 

 誰の夢か、母は言わなかった。言う必要がなかった。同じ屋根の下にいて、一度も母の夢に出てこなかった顔が、昨夜、出てきたのだ。父が出ていく前の晩と、同じように。

 

「うん」

 

 グレハムは言った。

 

「僕も」

 

 母は、少しだけ笑った。目のまわりに、細い線が走った。それから何も言わずに、台所へ戻っていった。止めなかった。止めても行くのだと、母は知っていた。

 

 台所から、湯を沸かす音が聞こえはじめた。

 

 扉の取っ手に、手をかけた。

 

 冷たかった。名簿を数えた日と、同じ冷たさだった。

 

 そのまま、長いあいだ動けなかった。台所の柱時計が、二度、時を打った。ジャスミンはもう、列車に乗っているはずだった。

 

 グレハムは目を閉じて、扉を押した。

 

 最初に届いたのは、匂いだった。

 

 甘くて、重い匂い。息を吸うと、喉の奥まで満ちてくる。鼻ではなく、胸で嗅いでいるような匂いだった。

 

 目を開けた。

 

 白かった。けれど、靄ではなかった。光が、強すぎるだけだった。少しずつ目が慣れると、白さの中から、形が浮かんできた。石畳。低い塀。その向こうの、隣の家の垣根。

 

 垣根が、花で覆われていた。

 

 小さな、白い花。星の形をした、細い花びら。蔓が絡み、葉が重なり、そのあいだに、白い星が無数に散っていた。

 

 グレハムは、その花を知っていた。

 

 画面で、何千回も見た花だった。

 

 匂いがあるなんて、知らなかった。

 

 春になると、窓の隙間から甘い匂いがすることがあった。部屋のカーテンはいつも閉めていたから、それがどこから来るのか、考えたこともなかった。何の匂いかも、知らなかった。

 

 あの花は、毎年、扉の外に咲いていたのだ。

 

 グレハムは、歩きだした。

 

 顔は上げなかった。前から人が来る気配がするたびに、目を足元に落とした。一人でも顔を見てしまえば、その人が名簿に入る。最後に夢で見る顔は、もう決めてあった。それに、決めたことを抜きにしても、人の顔を見るのはまだ怖かった。

 

 だから、彼が見た外の世界は、ほとんどが足元だった。

 

 石畳の継ぎ目。誰かの靴。犬の脚。子どもの小さな靴が、跳ねるように通り過ぎていく。音があった。車の音、話し声、鳥の声、遠くで鳴る鐘。音は全部いっぺんに来て、どれがどれなのか分からなかった。

 

 駅に着いた。切符は、機械で買えた。改札を抜け、来た列車に乗った。

 

 座席に座って、窓の外を見た。

 

 景色が流れていった。家、木、川、橋。見えているはずなのに、何も残らなかった。速すぎるからではなかった。目が、世界の見方を知らなかったのだ。画面と、部屋の壁と、母の顔だけを見てきた目は、窓の外を流れるものを、ただの明るい靄としてしか受け取れなかった。

 

 見ているのに、見えなかった。

 

 けれど、匂いだけは、まだ胸の中に残っていた。

 

 二十分後、列車は川のある町に着いた。


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