13話:母の夢
その朝の夢は、静かだった。
グレハムは、家の廊下に立っていた。いつもの廊下。いつもの床の軋み。
台所には、誰もいなかった。
廊下の先の、玄関の扉が、開いていた。
開いた扉の向こうに、母が立っていた。
外に。扉の外の、白い光の中に。前掛けはしていなかった。週に二度、店へ行くときの上着を着て、小さな鞄を肩にかけていた。
母は、こちらを向いていた。
顔が、見えた。
髪に白いものが混じり、目のまわりに細い線が走り、少しだけ笑っている顔。毎朝、茶を淹れてくれる顔。一度も夢に来なかった顔。
母は、何も言わなかった。ただそこに立って、グレハムを見ていた。扉の外から。
目が覚めた。
窓の外が、明るくなりかけていた。雨は、やんでいた。
グレハムは布団の中で、自分の手を見た。握って、開いた。動く。
枕元の画面をつけた。粗い光の中に、開いた扉があった。扉の向こうの白さの中に、人が立っていた。その顔が、はっきり映っていた。
母の顔だった。
グレハムは、静かだった。
思っていたより、ずっと静かだった。何年も恐れてきたことが、ついに来た。名簿の最後の一人。その顔を、自分は見た。
最後の一人を見たら、人はまもなく死ぬ。老婦人も、港の老人も、最後の顔を見てから、長くは生きなかった。
今日、誰にも会わなければ、たぶん今日のうちに、自分は終わる。
では、誰かに会えば。
名簿は、もう一度開く。新しい顔が一つ増える。夢がその顔を見せるまで、自分は終わらない。
ただ、たぶん、長くはない。最後の頁は、どれも同じだった。名簿の終わりが近い人の夢は、残りの顔を急ぐように見せていく。新しい顔を、いつまでも待ってはくれない。
会えば、今日は終わらない。けれど今夜、その顔を夢に見るだろう。
通りを歩く人の顔を片端から見ていけば、夜はもう少し延びるのかもしれなかった。けれど、そうして延ばした最後に、名前も知らない誰かの顔を見て終わるのは、嫌だった。
最後に夢で見る顔は、自分で選びたかった。
選ぶなら、一人しかいなかった。
画面を開いて、彼は打った。
今日、会えますか。
七年間、一度も書けなかった文章だった。
送ってから、窓を見た。カーテンは、いつものように閉まっていた。その隙間から、細い光が一本、床に落ちていた。
返事は、驚くほど早く来た。
会えます。
今は川のある町を離れて、少し遠くにいます。でも、すぐに出れば、三時間で戻れます。昼前には、川のある町の駅の、改札の前にいます。
それから、もう一行。
目印に、花を持っていきます。何の花かは、分かるでしょう。
グレハムは画面に向かって、小さく笑った。笑ったのは、ずいぶん久しぶりだった。
台所へ行くと、母がいた。
流しの前で、湯を沸かしていた。振り向いて、言った。
「おはよう」
グレハムは、母の顔を見た。
正面から、まっすぐに。夢の中で見たのと同じ顔だった。少しだけ笑っている。目のまわりに、細い線が走っている。
「おはよう」
グレハムは言った。
母は何か言いかけて、やめた。それから湯呑みを二つ並べて、茶を淹れた。
二人は向かい合って、茶を飲んだ。いつもと同じ朝だった。いつもと同じ朝であることが、これほど貴いものだとは、知らなかった。
茶を飲み終えると、グレハムは立ち上がった。
玄関のほうへ、歩いていった。
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