12話:一人分
グレハムの文章は、いつのまにか広場の外へ出ていた。
最初に載せてから、一年近くがたっていた。笑い声はとうに静まって、代わりに、ときどき真剣な言葉が届くようになっていた。
祖母の最後の日記を読み返しました。あなたの書いた通りでした。
父が死ぬ前の晩、知らない女の人が出てきたと言っていました。たぶん、あの人が最後の一人だったんだと思います。
そういう言葉が、少しずつ増えた。
彼の文章を読んだ人の数は、千を超えていた。千人が、グレハムという名前を知っていた。彼の考えに頷き、反論し、自分の家族の話を送ってきた。ありがとう、と書いてくる人もいた。声を吹きこんで送ってくる人も、何人かいた。
千人。
グレハムは、画面に並んだ名前を眺めた。
その千人の誰ひとりとして、彼の名簿には入っていなかった。
夜、声を送ってきた何人かが、靄になって夢に来た。
顔のない人の形が、廊下や、自分の部屋や、靄の中のどこでもない場所に立って、それぞれの声で喋る。あなたの文章に救われました。祖母のことが、やっと分かりました。靄たちは口々にそう言って、また消えていく。文字だけを送ってきた残りの人たちは、靄にさえならなかった。
グレハムは、靄の一つに手を伸ばした。指は、白いものの中を、何の手応えもなく通り抜けた。
千人に知られていても、法則の上では、一人分にもならない。
顔を見なければ、人は人の名簿に入れない。
自分が書いた法則の一番冷たい部分を、彼は自分の指で確かめた。
靄が消えると、父が来た。
今夜の父は、砂の丘の上に立っていた。足元から先は、いつもの通り靄だった。風が吹いているのか、父の上着の裾が揺れていた。
「旅に出なさい」
父は言った。
グレハムは初めて、言い返した。
「できない」
声は夢の中で、思っていたより大きく響いた。
「できないんだ。分かってる。旅に出れば名簿が伸びる。人に会えば、最後の夜は遠ざかる。お父さんの言う通りだ。計算は全部合ってる。でも、できない。扉が開けられない。会いたい人がいるのに、会いに行けない。会いたいと思うだけで、お母さんが振り向きそうになる」
父は、何も言わなかった。
「お父さんは、どうして行ったの」
グレハムは訊いた。あの朝から、一度も訊かなかったことを。
「どうして、僕を置いていったの。どうして、お母さんを置いていったの。どうして帰ってこなかったの。どうして毎晩、同じことしか言わないの」
父は、グレハムを見ていた。目尻の皺の一本まで、六つの朝のままの顔で。
それから、父は初めて、何も言わずに背を向けた。
靄の中へ歩いていった。あの朝と同じように。背中が白さに溶けて、見えなくなった。
旅に出なさい、とは、言わなかった。
目を覚ますと、まだ暗かった。
グレハムは、しばらく天井を見ていた。
あの朝から二十六年で初めて、父がその言葉を言わなかった夜だった。
言われ続けているあいだは、呪いだと思っていた。言われなくなって初めて、それが毎晩投げられていた細い綱のようなものだったと分かった。その綱が、今夜、手から離れた。
父はもう、言わないのかもしれない。言っても無駄だと思ったのかもしれない。あるいは、もう言う必要がないと思ったのかもしれない。どちらなのか、グレハムには分からなかった。
枕元の画面をつけると、記録が映った。
靄の人の形がいくつか、ゆらゆらと揺れて消えていく。それから、父の顔がはっきりと映った。父の顔だけは、いつも、はっきり映る。
最後に、父の背中が映った。背中は靄の中へ遠ざかり、画面は白くなった。
グレハムは、画面を消した。
隣の部屋で、母が寝返りを打つ音がした。
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