11話:背中
その夢は、春の終わりの、雨の夜に来た。
夢の中で、グレハムは家の廊下に立っていた。いつもの壁、いつもの床の軋み。夢の中の家は、本物と何ひとつ違わなかった。生まれてから毎日見てきた場所だからだ。
廊下の先に、台所があった。
台所に、誰かが立っていた。
流しの前に、背中を向けて。肩までの髪に、白いものが混じっている。前掛けの紐が、腰の後ろで蝶の形に結ばれている。片手に鍋を持ち、もう片方の手で、何かをかき混ぜている。
グレハムは、廊下の途中で足を止めた。
背中しか見えなかった。顔は見えない。けれど、その背中を、彼は知っていた。毎朝見ている背中だった。
振り向かないで。
声に出したのか、出さなかったのか、分からなかった。
背中が、かき混ぜる手を止めた。
首が、ほんの少しだけ、こちらへ傾いた。耳が見えた。頬の線が、見えかけた。
グレハムは、跳ね起きた。
暗い部屋だった。雨の音がしていた。心臓が、喉のすぐ下で鳴っていた。額の記録機の帯が、汗で滑っていた。
枕元の画面をつけると、記録が映った。粗い光と影の中に、廊下があった。廊下の先に、人の形をした暗がりがあった。顔のところは、映っていなかった。
見ていない。
彼は画面の前で、何度もそう繰り返した。顔は見ていない。まだ、見ていない。
朝、台所へ行くと、母がいた。
流しの前に、背中を向けて立っていた。肩までの髪に、白いものが混じっていた。前掛けの紐が、腰の後ろで蝶の形に結ばれていた。
母は振り向いて、言った。
「おはよう。お茶、淹れてあるわよ」
その顔を、グレハムは正面から見ることができなかった。見れば、夜の続きになる気がした。
なぜ、今なのか。
グレハムは一日中、それを考えた。母は一度も、夢に出てこなかった。それが昨夜、背中だけとはいえ、出てきた。
そばにいる人が夢に出てくるのは、離れるときだ。
自分は、離れようとしているのだろうか。
答えは、すぐに分かった。分かってしまった。
春先のあの夜から、彼はずっと、川のある町のことを考えていた。二つ隣の駅。列車で二十分。待つのが得意です、と書いた人。
ひと月は、何も言えないまま過ぎた。ジャスミンは、次の街へ移ったと書いてきた。責める言葉は、一つもなかった。それでも彼は、白い花の写真を開くたびに、自分があの町の駅に立っているところを、思い浮かべていた。
会いたいと思うことが、もう、離れることだったのだ。
体はまだ、この家の中にいる。けれど心は少しずつ、扉の外へ出はじめている。夢は、それを見逃さなかった。母の背中を連れてきて、振り向かせかけた。
会わずにいても、いつか母は離れていく。人はいつまでも、そばにはいられない。母の髪の白いものは、毎年増えていく。いつか母が離れていく日、母は夢に来て、振り向く。そのとき名簿にほかの顔がなければ、自分も一緒に終わる。
母の愛は、彼を外の危険から守ってきた。そして同じ愛が、彼の名簿を、母一人のところで止めていた。
どちらにしても、残された時間は、多くなかった。
その夜、グレハムは眠るのが怖かった。
記録機の帯を額に巻いて、灯りを消した。
夢に、父が来た。
「旅に出なさい」
父の声が、いつもより少しだけ、急いでいるように聞こえた。
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