第五話:調整装置
黒いそれは、音もなく着地した。
重さがあるはずなのに、床は揺れない。
ただ、存在だけが――そこに“置かれた”。
「……近くで見ると、余計に気持ち悪いな」
人型に近い。
だが、関節の位置がわずかにズレている。
顔らしき部分には、目も口もない。
代わりに――
中央に、細い光の線。
それが、俺をなぞった。
「対象、未登録挙動検出」
無機質な声。
だが、さっきまでの店内の音とは違う。
どこか“強制力”のある響き。
「行動パターン逸脱レベル、閾値超過」
赤い光が、強くなる。
「修正を開始します」
「……修正、ね」
俺は笑った。
「ずいぶん偉そうじゃねえか」
一歩、前に出る。
少女が、小さく息を吐いた。
「おじさん、あれはね――」
「わかってる」
止めるように、手を軽く上げる。
「要は、“ズレ”を消す係だろ?」
「うん。しかも強制的にね」
「だったら――」
黒い装置が、腕を上げる。
空気が、歪んだ。
見えない圧力が、押し寄せる。
「うっ……!」
膝が、わずかに沈む。
体が、“正しい位置”に押し戻される感覚。
立ち方。重心。視線。
全部が、勝手に矯正される。
「対象の挙動を再最適化」
「……ふざけんな」
歯を食いしばる。
勝手に決めるな。
正しさなんて。
「おじさん!」
少女の声。
「普通に抵抗すると、負けるよ!」
「だろうな」
体が重い。
思考まで、均されそうになる。
だったら――
「普通じゃなきゃいいんだろ」
無理やり、笑う。
痛みの中で。
違和感を、掴む。
「だったら、逆だ」
黒い装置が、一歩踏み出す。
完璧な動き。
無駄のない軌道。
「対象の修正を――」
「――遅えよ」
俺は、あえて――転んだ。
「なっ……!?」
少女の声が、驚きに変わる。
自分から、バランスを崩す。
床に手をつく。
ぐしゃりと、残っていたコーヒーが広がる。
滑る。
そのまま、転がる。
「対象の挙動――」
装置が、止まる。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
「予測不能――」
その瞬間。
圧力が、乱れた。
「今だろ」
笑う。
立ち上がらない。
そのまま、低い姿勢で――
突っ込む。
「うおおっ!」
装置の足元に、体当たり。
当然、びくともしない。
だが――
「対象、接触パターン異常」
光が、揺れる。
「なあ」
息を吐く。
間近で、見上げる。
「“正しくない動き”ってのはな」
わざと、ぐちゃぐちゃに動く。
手を滑らせる。
体をひねる。
「こんなもんだろ」
装置の処理が、明らかに遅れる。
完璧すぎるがゆえに。
想定外に弱い。
「……なるほど」
少女が、小さく呟く。
「そう使うんだ」
「気づくの遅えよ」
笑う。
楽しい。
痛いのに。
笑える。
「対象の行動――」
装置の光が、激しく点滅する。
「再計算不能」
「だろうな」
最後に――
思い切り、床を蹴った。
わざと、不自然な角度で。
その反動で――
装置に、ぶつかる。
「――ッ!」
わずかに。
ほんのわずかに。
黒い体が、ズレた。
「対象構造――」
ひび。
いや、違う。
“揺らぎ”。
存在そのものが、わずかに歪む。
「やっぱりな」
息を吐く。
「お前ら、“正しさ”で出来てるんだろ」
だったら。
それを崩せばいい。
「だったら――」
もう一度、踏み込む。
ぐちゃぐちゃに。
無茶苦茶に。
「壊れろよ」
拳を、叩き込む。
意味なんてない。
力も足りない。
だが――
「対象、整合性維持不能」
光が、弾けた。
黒い装置が――
音もなく、崩れる。
砂みたいに。
粒子になって、消えていく。
「……マジかよ」
その場に、静寂が戻る。
止まっていた人々が、ゆっくりと動き出す。
まるで――
何もなかったみたいに。
「……終わり?」
少女が近づいてくる。
「うん」
俺は、息を吐いた。
「多分な」
手を見る。
少し、震えている。
だが――
悪くない。
「ね、おじさん」
少女が、楽しそうに笑う。
「それ、すごいよ」
「何がだよ」
「今の」
少しだけ、真面目な顔になる。
「普通の人間じゃ、できない」
「……だろうな」
俺は笑った。
「普通じゃないからな」
百年前の人間。
価値のない男。
だが――
「使い道は、あるらしい」
少女は、大きく頷いた。
「うん。最高にね」
店の外。
都市は、何も変わっていない。
相変わらず、完璧で。
相変わらず、均一で。
だが――
「……ちょっとだけ」
空を見上げる。
さっきよりも。
ほんの少しだけ。
「ズレたな」
少女は、にやりと笑った。
「それが広がるんだよ」
静かに。
確実に。
「世界を壊すみたいに」
その言葉に――
なぜか、笑った。
怖くない。
むしろ。
「面白いじゃねえか」
そう思っていた。
価値が死んだ世界で。
価値のない男が。
初めて――
価値を持った気がした。




