第九十七話 血塗られた軍師
「まさか、シェリーがハウンドだったとはな……」
「まったくですな……それに、“宵闇の烏”まで関わっていたとは……」
俺たちは、エリュシオン城の地下に作られた大浴場にいた。
旅の疲れを癒すという名目で、俺がリオデルカとアランを誘ったのだ。
湯気が立ち込める広い浴場には、水の流れる音だけが静かに響いている。
「はい……その……ミスラから聞いたんですが……シルフィード王国では、“宵闇の烏”にはあまり良い印象がないとか……」
俺は少し申し訳なさそうに、アランへ視線を向けた。
「ん? ああ……“満月の粛清”のことをおっしゃっているのですかな?」
アランは、意外なほどあっけらかんとした様子で聞き返してくる。
「たぶん……それです」
俺は肩まで湯に浸かりながら答えた。
「そんな顔をされるな、陛下。ミスラ様はともかく、私はさほど思うところはありません」
「そうなんですか?」
ミスラの怒りようを思い出していた俺は、意外な返答に思わず聞き返した。
「ええ。あの時粛清されたのは、宮中でもあまり良い噂のなかった貴族たちでしたからな」
「なるほど……」
「まぁ、その中には数少ないミスラ様の支持者も含まれていました。ですから、ミスラ様にとっては良い記憶ではないのでしょう」
俺は今さらながら、ミスラが育った“貴族社会”という場所の息苦しさを思い知る。
「まぁ、シルフィード王国としては、大義名分を得たうえで不穏分子を処理できる絶好の機会だった、というわけだな」
リオデルカが湯船の縁に腕を置きながら言った。
「そういえば、イマリはアストロガルド帝国の情報も持っているみたいでした」
俺がそう言うと、今度はリオデルカがこちらを見る。
「ほう……それは興味深いな。どんな話だった?」
その表情は、どこか楽しげだった。
「あの……その……」
「安心せい。ワシもアランも、今さら母国に戻ろうなどとは考えておらん。この島から出られるかも怪しいのだからな」
リオデルカがそう言うと、アランも静かに頷く。
「あ、いえ……そうじゃなくて……デンスのことなんです」
「……ほう。あやつのことか」
その瞬間、リオデルカの顔から笑みが消えた。
「はい。イマリはデンスのことを、“血塗られた軍師”って……そう呼んでいました」
大浴場が静寂に包まれる。
流れ落ちる湯の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……そうか。烏は、そこまで掴んでおったか」
リオデルカは、どこか遠くを見るような目で呟く。
「同じアストロガルド帝国出身のイリスも、ピンとは来ていなかったみたいだったので……」
「当然だ。あやつが騎士になるより前の話だからな」
「……なるほど」
リオデルカの目は、まだ遠い過去を見つめていた。
「帝国領内に、一つの村があってな……少々きな臭い動きを見せておった」
リオデルカは、静かに語り始める。
「きな臭い動き?」
「ああ。もともと独立民族として成り立っていた地域でな。
ワシの父の代で帝国に併合された経緯があった。
それで、再び独立しようとしていたらしい」
「……」
「しかも、かなり物騒なやり方でな」
「なるほど……暴動ではなく、組織的な反乱工作ですな」
アランが低い声で言う。
「そうだ」
リオデルカは短く頷いた。
「当時、ワシのもとで軍師として働いていたデンスに、“どうにかしろ”と命じたのだ。
あやつは軍略だけでなく、政務の才も飛び抜けておったからな」
そう言うと、リオデルカは湯船から上がり、その縁へ腰を下ろした。
「だが……ワシの命じ方が悪かった」
「命じ方……ですか?」
「ああ。
あやつは、命じられた目的を最短で達成する男だ。
そこに情を挟まぬ。
だからこそ、ワシは帝位にある者として、踏み越えてはならぬ線を明確に示すべきだった」
俺とアランは、言葉を挟まず耳を傾ける。
「だが、ワシはそれをしなかった。
ただ、“どうにかしろ”と命じた。
それだけで、あやつには十分すぎたのだ」
リオデルカの声が、わずかに低くなる。
「あやつが選んだ“どうにかする方法”は――」
そして、リオデルカは静かに告げた。
「見せしめとして、噂の流れた村を焼き討ちにし……女も子供も含め、皆殺しにすることだった」
「っ!?」
思わず息を呑む。
アランは静かに目を閉じ、俯いた。
再び浴場を沈黙が支配する。
「……効果的、ではありますな」
やがて、アランが静かに口を開いた。
「ああ。効果は絶大だった。周囲の村々は、一瞬で大人しくなった」
「恐怖で支配した……」
俺の口から、ぽつりと言葉が漏れる。
「そうだ。だが、国家が“虐殺”を行ったのだ。当然、城では問題になった」
「なるほど……それで、リオデルカ様は責任を取られて……」
アランが得心したように呟く。
リオデルカは静かに頷いた。
「我々の国にも、“アストロガルド帝国で村が粛清された”という情報は届いておりました」
アランは俺に説明するように続ける。
「ただ、アストロガルド帝国は、その圧倒的な軍事力で領土を広げてきた国です。
その歴史の中の一件としか、我々には見えていなかったのです」
俺は静かに頷いた。
きっと、アストロガルド帝国には、こうした血塗られた歴史が幾つも存在するのだろう。
「まぁ、その件を機に、ワシは帝位を息子へ譲った。
表向きは“老い”を理由にな。
そして、辺境へ引っ込んだのだ」
リオデルカが苦笑混じりに言う。
「そうだったんですか……じゃあイリスは、その後に?」
「ああ、そうだ」
リオデルカの過去。
そして、デンスの過去。
それを知った俺は、“王”を名乗っている自分が、少しだけ薄っぺらく思えた。
「まぁ、この島へ来てからは、あやつのそういう黒い部分も、多少は鳴りを潜めておるがな……」
(……いや、そうでもないんだけどな)
俺は、時折見せるデンスの冷酷さを思い出していた。
「これが、あやつが“血塗られた軍師”と呼ばれる所以だ」
リオデルカはそう締めくくると、重苦しい空気を振り払うように表情を和らげた。
「さて……そろそろ上がるか。このままでは、本当にのぼせてしまう」
「そうですね。話してくださって、ありがとうございます」
俺がそう言うと、リオデルカは豪快に笑う。
「なに。人が生きれば、そこには必ず物語が生まれる。ワシは、その一つを語っただけだ」
その言葉には、長い時を生きた王の重みがあった。
俺たちは湯から上がり、脱衣所へ向かう。
さっきまで浴場を覆っていた重苦しい空気は、少しだけ薄れていた。
だが――
リオデルカの語った“血塗られた歴史”は、確かに俺の胸に残り続けていた。
王とは何か。
国を守るとは何か。
その答えは、きっと一つではない。
だが、少なくとも一つだけ分かったことがある。
国を守るという言葉の裏には、時として、誰かの血が流れる。
そして――
その選択を、迷わず差し出してくる男が、今も俺のすぐそばにいる。
宰相、デンス・クローム。
湯気の残る浴場を振り返りながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
温まったはずの体の芯が、なぜか少しだけ冷えていた。




