第九十五話 破滅の兆し
辺りはすでに日が沈み、八番領地領主邸の執務室には、蝋燭の火だけがか細く揺れていた。
窓の外には重たい夜の闇が広がり、時折吹く風が窓枠を小さく軋ませる。
その空間はまるで現世から切り離されたように静まり返っており、執務机に向かうフジムラ・ソウタが書類をめくる音だけが、やけに耳についた。
「なぁソウタ。本当に……これでよかったのかよ?」
静寂を破ったのは、執務机の前に置かれた応接セットに腰掛ける男――レオン・バスカビルだった。
蝋燭の火に照らされた彼の表情には、隠しきれない焦燥が浮かんでいる。
「……まだ言っているのか、レオン。何をそんなに心配している?」
ソウタは書類から目を離さないまま、呆れたように答えた。
「レオンよ。王が決めたことだ。我々は従うのみではないか?」
低く響く声でそう言ったのは、レオンの向かいに座る大柄な男、オスワルドだった。
岩のような体躯をソファへ沈め、腕を組んだまま動かない。
「そうは言ってもだな、オスワルド。これはあまりにも先行きが見えなさすぎるだろ」
レオンは食い下がる。
「レオン、お前はこの包囲網の何が不満なんだ?」
今度はソウタが顔を上げた。
その目には、苛立ちを押し殺す色が浮かんでいる。
「不満ってわけじゃねぇよ」
「じゃあなんだよ」
語気は明らかに強くなっていた。
レオンはそんな視線にも怯まず、真正面から見返す。
「聞くが、お前。この包囲網における同盟の取り決めで、他の領主連中とは直接会ってないんだろ?」
「それがどうした?」
ソウタは肩をすくめた。
「こうして“血判書”もある。まさか山脈を越えて、一層経由で東側まで挨拶に行けっていうのか?」
彼は机の上の書類を一枚つまみ上げる。
蝋燭の火に照らされた羊皮紙には、血で押された印がいくつも並んでいた。
―――
リベリオン討伐のため、一か月後を目途に、四領の全兵力をもって総攻撃を仕掛ける。
また、物流および間者の往来に対する検問を強化し、共同包囲網の構築を目的とした同盟を、ここに締結する。
同盟主
十六番領地 領主 イシダ タクミ
参加領地
十三番領地 領主 タケグチ ジュン
九番領地 領主 フジムラ ソウタ
六番領地 領主 タチバナ ミヤビ
―――
各領主の名前の横には、血判が押されている。
「俺達の世界の言葉で書かれてるし、こっちのタチバナの文字なんて、女の子特有の丸文字だ。偽物とは思えないだろ」
ソウタは鼻で笑うように言った。
だが、レオンの表情は晴れない。
「お前、その連中と“あっち”でそんなに関わりあったのか?」
「……いや、そこまで話したことはないけど」
「それで、どうしてその字が本物だって言い切れるんだよ」
「それは……」
ソウタが言葉を詰まらせる。
レオンはさらに畳み掛けた。
「それによ、そいつらの戦力だってまともに把握してねぇじゃねえか。それで“総攻撃”って……」
空気が重く沈む。
「そもそも同盟の取り決めが、たった二行の文だけなんて――」
「うるさい! もういい!」
突如、ソウタが怒鳴った。
執務室の空気が震える。
レオンは思わず目を見開いた。
対面のオスワルドは、ただ腕を組んだまま静かに目を閉じている。
「もう決めたんだ! 騎士なら、王である俺の決めたことに従え!」
「……お前」
その言葉に、レオンの顔から表情が消えた。
一瞬だけ、失望にも似た感情が瞳をよぎる。
「この話は終わりだ! もう出て行ってくれ!」
ソウタは吐き捨てるように言うと、再び書類へ視線を落とした。
「……わかったよ」
レオンは小さくそう呟き、静かに立ち上がる。
それに合わせるように、オスワルドも腰を上げた。
二人はそのまま執務室を後にする。
扉が閉まった瞬間、部屋の中からは再び紙をめくる音だけが漏れ聞こえてきた。
廊下は薄暗かった。
今夜は月が厚い雲に覆われているせいで、壁際に並ぶ蝋燭の灯りだけが頼りだった。
揺れる火は頼りなく、長い廊下の奥は闇に溶け込んでいる。
レオンとオスワルドは、そんな静まり返った廊下を並んで歩いた。
途中、見知ったメイドの女とすれ違う。
彼女からは、やや強めのフローラル系の香水の匂いが漂っていた。
その甘ったるい香りは、この戦時下の空気にはあまりにも不釣り合いだった。
主君に仕えるメイドなら、主人や客人の前に立つこともある。
ならば、好みの分かれる強い香りなど控えるべきだ――本来なら。
だがレオンは、その女がこれから誰の部屋へ向かい、そこで何をするつもりなのかを理解してしまっている。
(……またか)
自然と顔が曇る。
(ここはまだ敵地だっていうのに……)
彼は小さく息を吐いた。
「なぁオスワルド。ソウタのやつ……三十番領地を落としたあたりから、おかしくなってないか?」
暗がりの中、足元を見ながら問いかける。
「……俺に聞くのか?」
オスワルドは前を向いたまま答えた。
「はは……まぁ、そうだよな」
レオンは苦笑する。
「じゃあ、こっからは俺の独り言だ」
そう言って彼も前を向く。
二人の足音だけが、石造りの廊下に乾いた音を響かせていた。
「あいつ……三十番領地を取るまでは、慎重すぎるくらい慎重だった」
レオンの声は静かだった。
「だけど三十番領地を落として、領民や屋敷のメイド達にチヤホヤされるようになってから、少しずつ変わっちまった気がする」
オスワルドは何も答えない。
だが否定もしなかった。
「それに、今回だってそうだ。
三十番領地を押さえた勢いのまま八番領地に仕掛けて、ここを実効支配した。
そこまではいい。
けどな……前のあいつなら、まだ敵地であるこの場所にこんな長居はしなかった」
レオンは、薄暗い廊下の先を見る。
「完全に支配しきれてねぇ以上、ここは危険すぎる」
隣で、オスワルドがわずかに頷く気配がした。
「どうしたもんかねぇ……」
レオンはそう呟き、天井を仰ぐ。
その横顔は、まるで自分達の未来に薄く差し始めた破滅の影を感じ取っているようだった。
「ちゃんと前を見て歩け。転ぶぞ」
不意に、オスワルドがぶっきらぼうに言った。
その言葉が妙に可笑しくて、レオンは思わず吹き出してしまう。
「……なんだ? おかしかったか?」
オスワルドが、廊下に出てから初めてレオンを見る。
「ああ、いや……そうじゃねぇんだ。悪い悪い」
レオンは慌てて手を振った。
そして少しだけ笑みを浮かべたまま、再び前を見る。
「そうだな……ちゃんと前見てねぇと、“転んじまう”な」
それはまるで、自分自身へ言い聞かせるような声だった。
その直後。
屋敷の外で、冷たい風が唸った。
どこか遠くで窓板が軋み、廊下の蝋燭の火が一斉に揺れる。
長く伸びた二人の影が、不気味に歪んだ。
まるで、足元に開いた亀裂を照らし出すように。
屋敷の上空では、厚い雲が月明かりを呑み込み、八番領地を深い闇の底へと沈めていった。




