第九十四話 それでも、君を殺さない
一方、部屋の外では――
「なんだ……“烏”もそんな顔をするのね」
シェリーとリリィが椅子を運んでいる間、ミスラはじっとイマリの横顔を見つめながらそう言った。
「なんじゃ、お主。ワシらをなんだと思っておる?」
イマリは肩を竦め、怪訝そうな、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべる。
「文字通り、人の血が通っていない“烏”よ」
「これはまた、随分と手厳しいのう」
イマリは苦笑を漏らした。
「でも……」
ふいにミスラは視線を落とす。
「少しだけ、あなたのことがわかった気がする……」
その言葉に、イマリは一瞬だけ目を丸くした。
だが次の瞬間には、いつもの悪戯っぽい笑みに戻っている。
「ほう? ワシのことがわかったのか? どれ、お姉さんに聞かせてみ。答え合わせをしてやるでのう」
「からかわないでよ」
ミスラは眉をひそめ、不満そうに言う。
「それで……なんで、あんな顔してたのよ」
からかいを振り払うように、彼女は問いを重ねた。
「ん? いや……ただのう……」
イマリはそこで言葉を切り、窓の外へ視線を向ける。
曇天の空は重く垂れ込め、薄く差し込んでいた陽の光も、今はほとんど灰色の雲に呑まれていた。
「姫達にも、ワシらと同じように“元の住処”がある。じゃが、ワシらと違うのは……その住処が“別の世界”にあるということじゃ」
「……そうね」
「わかってはおった。わかってはおったが……やはりワシらでは、元の世界での日々には敵わんのだと、妙に実感してしもうての」
イマリは遠い目をしていた。
その横顔には、普段の軽薄さとは違う、静かな寂しさが滲んでいる。
「どういう意味よ?」
「そのままの意味じゃ。さっき見たじゃろう? 若き王と姫のやり取りを」
「ええ……」
「ワシはな、姫のあんな笑顔、ここ最近ついぞ見ておらなんだ」
「……」
ミスラも、その意味を理解したのか、何も言えず口を閉ざした。
アサヒナを失ってからというもの、カワナミはずっと沈んだままだった。
あれほど自然に笑った姿を、イマリは本当に久しく見ていなかったのだろう。
「まぁ、この話はよい。今は姫が、少しでも心を取り戻してくれるのを願うしかないの」
「……そうね」
ミスラは静かに俯く。
廊下には、どこか重たい沈黙が流れていた。
だが――。
「そう言えば」
その空気を吹き飛ばすように、イマリが急に明るい声を上げる。
「ひゃっ!?」
突然の声に、ミスラの肩がビクリと跳ねた。
「お主、若き王と結婚したんじゃろ?」
「え? ええ……そうよ」
その返事を聞いた瞬間、イマリの口元がにやりと歪む。
「どうじゃ? ちゃんと肌は重ねておるのか?」
「ッ!?」
ミスラの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「どうなんじゃ? ん?」
「……てるわよ」
「ん?」
「何度もしてるわよっ!!!」
羞恥にまみれた叫びが、静まり返った廊下いっぱいに響き渡った。
「こうして、ちゃんと話すのは初めてだな」
俺は、できるだけ穏やかな声を意識してカワナミさんへ話しかけた。
「あの時、この場所で会った時は、状況が状況だったからさ。まともに話もできなかったし」
俺がカワナミさんと初めて会ったのは、旧七番領地での戦いの最中だった。
アサヒナさんと対峙していた、あの最悪の瞬間。
「うん……そうだね……」
彼女は当時の記憶を思い出したのか、表情を暗くし、小さく俯いた。
その仕草を見ただけで、胸の奥を鈍い痛みが抉っていく。
「その……なんていうか……」
俺は言葉を探した。
ずっと伝えなければいけないと思っていた。
なのに、いざ本人を前にすると、喉の奥が妙に重い。
怖かったのだ。
何を言われるのか。
どんな感情を向けられるのか。
それが。
「アサヒナさんを……助けられなくて……守れなくて……」
俺は唇を噛み、頭を下げる。
「ごめん」
言葉にするまで、ひどく時間がかかった。
膝の上に置いた手は、自分でもわかるほど震えていた。
「アサヒ君の……せいじゃ……ないよ……」
小さな声。
けれど確かに、彼女はそう言った。
顔を上げると、涙を堪えるように俺を見つめるカワナミさんの姿があった。
「アサヒ君は……私の意見も聞いてくれて……ちゃんと、カエデちゃんに提案してくれた……」
「……」
「でも……」
「でも?」
「私は……何も……できなかった」
彼女の瞳に涙が滲む。
「私は怖がって……何も……できなかった……しなかった!」
押し殺していた感情が、一気に溢れ出した。
「カエデちゃんにも、アサヒ君にも……辛い思いをさせてしまった!」
涙が頬を伝い落ちる。
彼女はそれを隠すように、両手で顔を覆った。
「今だってそう……私のせいで、たくさんの人が死んだ!」
震える声。
震える肩。
「ごめん……ごめんね……カエデちゃん……アサヒ君……」
その姿は、見ているこちらの胸まで締めつけてくる。
「私は……いないほうが……いい……!」
その言葉に、俺の目頭も熱くなった。
「たぶん……だけど……」
俺はゆっくりと言葉を選ぶ。
「アサヒナさん……怒ってないよ」
「……え?」
カワナミさんが、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。
「亡くなる時さ……すごく穏やかな顔してたんだ」
「……そっか」
彼女は涙で濡れた顔を、腕で乱暴に拭った。
「アレースにね、風が気持ちいい高台の丘があるんだ」
「……うん」
「今、アサヒナさんはそこに眠ってる」
カワナミさんは静かに耳を傾けていた。
「今度、案内するよ」
俺は無理やり笑みを作る。
「一緒に……謝りにいこう」
その瞬間、頬を一筋の涙が伝った。
「……アサヒ君」
「あ……ごめん」
慌てて涙を拭う。
「アサヒ君は……私なんかより、ずっとずっと苦しかったよね……ごめんね……」
彼女もまた、涙を止められずにいた。
「……俺もカワナミさんも、こんなに泣いてたら……きっとアサヒナさんに怒られるよ」
できるだけ笑って、そう言う。
「……うん……そうだね」
彼女は何度も腕で涙を拭った。
しばらくして、ようやく少しだけ落ち着いたのか、小さく息を吐く。
「……それで、何か話が……あったんでしょ?」
「あ……ああ、うん」
俺は本題を思い出した。
「聞かせて……」
「……実は、イマリから八番領地の従属化を提案された」
一気に言い切る。
「……」
「彼女は、自分の独断だって言ってた」
「……そっか。イマリちゃん……私のことを考えて……」
カワナミさんは、静かに部屋の扉へ視線を向けた。
「たぶん……そうだと思う」
俺も頷く。
「私は……構わないよ」
返答は、驚くほどあっさりしていた。
「でも……」
「でも?」
「リベリオンにとっては……従属させるより、私を殺したほうが簡単なんじゃない?」
自嘲するような笑み。
その言葉に、俺は目を見開いた。
脳裏に、一瞬デンスの顔が浮かぶ。
「何を……言ってるんだ?」
「だって……そうで――」
「やめてくれ!」
思わず声が大きくなった。
「……ごめん」
彼女はびくりと肩を震わせ、慌てて俯く。
その姿を見て、ようやく理解した。
彼女の中で、様々な感情が絡み合い、心を蝕んでいることを。
罪悪感。
自己嫌悪。
生きたいという願い。
消えてしまいたいという願い。
日本では決して抱えることのなかった感情が、一気に彼女へ降りかかっている。
「とにかく、近いうちにリベリオンの幹部たちがここへ来る」
俺は静かに立ち上がった。
「その時、また話をしよう」
そう言って扉へ向かう。
「……うん……あの……アサヒ君」
扉に手を掛けようとした時、背後から彼女の声が届いた。
「その……ごめんなさい」
小さな謝罪。
それを背中で受け止めながら、俺は答える。
「カワナミさん」
振り返らずに言った。
「俺は、君を殺さないよ」
「……」
「いや、生きていてほしいと思ってる」
「……うん」
「アサヒナさんのためにも……なにより、俺自身のためにも」
返事はなかった。
けれど、その沈黙は拒絶ではない気がした。
俺はそのまま扉を開ける。
部屋の中には、重たい静けさだけが残されていた。
窓の外では、先ほどまで雲の隙間から差し込んでいた淡い陽光が、今は完全に厚い雲に覆われている。
薄暗くなった室内では、机の上に置かれたティーカップから、かすかに湯気だけが立ち昇っていた。
まるで行き場を失った感情のように、その白い湯気は、灰色の空へ溶けていくように揺れていた。




