第九十三話 再開
エリュシオンのハイ・オービットにある迎賓館の廊下は、昼過ぎだというのに静まり返っていた。
窓の外に広がる曇天。その切れ間から差し込む淡い陽光だけが、白い廊下をぼんやりと照らしている。
磨き上げられた床には薄く光が滲み、足音だけがやけに大きく耳に残った。
俺達は、その静けさを壊さないように、ただ無言でカワナミさんの部屋へ向かって歩いていた。
やがて目的の部屋が見える。
その扉の前には、シェリーが背筋を伸ばし、静かに両手を前で組んで待っていた。
「お待ちしておりました」
シェリーは柔らかな笑みを浮かべ、一礼する。
「ああ。知らせてくれてありがとう」
俺がそう言うと、彼女は小さく頷いた。
「カワナミさんは……どんな感じだ?」
俺の問いに、シェリーは少しだけ表情を曇らせる。
「今は、医師のネレーナ先生と、リリィがついてくださっています。……ですが」
そこで一度、彼女は言葉を切った。
「ですが?」
「……何と言いますか。心ここにあらず、といった様子でして……」
視線を伏せながら、静かに答える。
(イマリの言っていた通りか……)
“生ける屍”。
そう表現したイマリの言葉が脳裏をよぎる。
その言葉に、ようやく現実味が伴い始めていた。
ずっとどこか遠かった出来事が、今になってゆっくりと胸の奥を抉ってくる。
「そうか……。それで……会って平気なのか?」
シェリーに向けた問いだった。
だが実際には、自分自身への問いかけに近かったのかもしれない。
会っていいのか。
会って、何を話すのか。
まだ心の整理なんて、全然ついていない。
――いや。
正直に言えば、怖かった。
シェリーは何度か控えめにドアをノックすると、僅かに扉を開き、中を覗き込む。
「先生。陛下がお見えですが、中にお入り頂いても?」
「ええ。大丈夫ですよ」
返ってきたのは、リリィとは違う落ち着いた女性の声だった。
シェリーは一度大きく頷き、ゆっくりと扉を押し開く。
俺達は静かにその部屋へ足を踏み入れた。
室内はイマリの部屋と同じく洗練された造りだった。
家具の配置こそ違うが、統一感のある落ち着いた調度品が並び、どこか上品な空気を漂わせている。
そして、その奥。
少し大きめのベッドの上に、カワナミさんはいた。
(……痩せたな)
それが、彼女を見た瞬間に浮かんだ第一印象だった。
ベッドに腰掛けた彼女は、窓から差し込む灰色の光を浴びながら、どこか遠くを見るような目で虚空を見つめている。
その姿は、以前の彼女より一回りも小さく見えた。
「アサヒナの死を聞いて以来、ろくに食事も喉を通らなかったからの」
俺の視線の意味を察したのか、イマリが小声で呟く。
「まずはワシが行こう」
そう言って、彼女は俺の横を通り過ぎ、ゆっくりとベッドへ歩み寄った。
カワナミさんの視界に入る位置まで来ても、彼女はすぐには反応しない。
「ずいぶん久しぶりに感じるのう……姫よ」
イマリの声には、普段の軽薄さとは違う、静かな哀愁が滲んでいた。
その声を聞き、カワナミさんの虚ろな瞳がゆっくりとイマリへ向く。
「……イマリ……ちゃん?」
「そうじゃよ。お主の頼れるお姉さん、イマリちゃんじゃよ」
イマリは自嘲気味に笑った。
「無事で何よりじゃ」
その瞬間、ようやく理解した。
イマリは本当に、心の底からカワナミさんを案じていたのだと。
延命のための独断。
八番領地をエリュシオンへ従属させる提案。
誰の目にも、自分達の生き残りのために動いたように映っていた。
……いや。
そう見えるよう、イマリ自身が振る舞っていたのかもしれない。
だが今、目の前にいる彼女は違った。
その表情も、声も、視線も。
妹のように思っている相手を、ただ純粋に心配する“姉”そのものだった。
「イマリちゃんも無事で……よかった……。私達、助かったんだね……」
弱々しく、けれどどこか安心したようにカワナミさんが呟く。
「ああ。助かった。リベリオンの皆が助けてくれた」
「リベリオン……そっか……。ここ、リベリオンなんだ……」
イマリはそこで、俺を手招きした。
その合図に応えるように、俺は一歩ずつ彼女のもとへ近づいていく。
途中、医師のネレーナの横を通り過ぎた時、彼女が小声で耳打ちしてきた。
「所々、記憶が曖昧になっています。できれば、慎重に言葉を選んでいただけると……」
俺は無言で頷いた。
そして、カワナミさんの前へ立つ。
彼女はゆっくりと俺を見上げた。
「……アサヒくん?」
「ああ。久しぶりだね、カワナミさん。元気……ではないよな。無事で、本当に良かった」
言葉が妙にぎこちなくなる。
横から、イマリの冷たい視線を感じた。
――お主、不器用すぎんか?
そんな声が聞こえてきそうだった。
俺は苦笑混じりに取り繕う。
「うん……助けてくれたんだね……ありがとう」
カワナミさんも、小さく微笑み返してくる。
「それにしても……見違えたね」
「ん? そうか?」
「うん。だって昔は……机に向かって本ばっか読んでるイメージ……しかなかったもん。
それが今じゃ……こんなに筋肉まで……つけちゃって……」
「本ばっか読んでたのは、カワナミさんも同じだろ」
「ふふ……たしかに、そうかも」
彼女の笑顔が、ほんの少しだけ大きくなる。
つられるように、俺の頬も自然と緩んだ。
「……敵わんな」
その様子を見ていたイマリが、小さく呟く。
驚きと、どこか安堵の混じった声だった。
「少し、二人で話すとよい。旧友同士、積もる話もあるじゃろう。ワシらは外におる」
そう言って、イマリは踵を返した。
そして俺の横を通り過ぎる際、俺にだけ聞こえる声で囁く。
「従属の件も、お主から話してやってくれ。……たぶん、その方がよい」
俺は何も答えず、静かに頷いた。
「シェリーと言ったか? 悪いが、茶と椅子を頼めるかの?」
イマリはいつもの調子に戻り、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
シェリーは露骨に眉をひそめた。
「私はあなたのメイドではないのですが?」
「なんじゃ? 客人をもてなすのもメイドの務めじゃろう? ほれ、早くせんか?」
「ぶち殺しますよ」
「おー怖いのう」
軽快なやり取りに、リリィが慌て、ミスラが呆れたようにため息をつく。
ネレーナはそんな光景を見て、くすりと微笑んでいた。
「じゃあタイシ。私達、外にいるから。何かあったらすぐ呼んでね」
最後にミスラがそう言う。
「ああ。ありがとう」
俺が返事をすると、皆は静かに部屋を出て行った。
ゆっくりと扉が閉まり、室内に静寂が戻る。
部屋に残されたのは、俺とカワナミさんの二人だけだった。
窓の外では、厚い雲が空を覆っている。
時折、その切れ間から淡い陽光が差し込み、白いカーテンを揺らしていた。
静かな風が部屋を通り抜け、薬草の匂いと、部屋に残る茶葉の香りを微かに運んでいく。
壁際の時計の針だけが、やけに大きな音を立てて時を刻んでいた。
その穏やかな静寂は、どこか壊れ物のように儚くて――
俺は、彼女と向き合うように、静かに椅子へ腰を下ろした。




